感情規則

社会学者アーリー・ホックシールドは、人間の感情を「個人の自然な内面」としてではなく、社会によって管理されるものとして捉え、「この場面では、こう感じるべきだ」という社会の暗黙のルールを「感情規則(feeling rules)」と提唱した。社会において感情は他人から“査定”され得るものであるというのだ。例えば、葬式では深く悲しむべきだし、結婚式では喜ぶべきだとされる。

この「感情規則」に則るのならば、私たちは、ただ感情を抱いているのではなく、この感情は適切か、この場面でこの振る舞いは正しいか、自分はちゃんと“感じるべき感情”を感じているか、を無意識に自己点検しているといえる。そう考えると、火葬場でスマホを見ていた自分を「薄情だ」と感じたのも、単なる良心の呵責ではなく、感情規則に照らした自己評価だったのかもしれない。つまり私は、「本当に悲しいなら、スマホなど見るべきではない」というルールを、どこかで内面化し、そのルールに従って、「スマホを見ている自分」を裁いていたということなのだ。

いうなれば、それは一種のポージングともいえるのかもしれない。ただし、それは「本当は悲しくないのに、悲しんでいるふりをしている」という意味ではない。実際、私は本当に悲しかった。しかし同時に、「どう悲しむべきか」を自分で監視している状態でもあった。つまり、スマホを見ない自分でいるべきと考えること自体が、一種の“悲しんでいるポーズ”になっていたのである。

しかし、これは悲しいふりをしているわけではない。むしろ、「悲しみ」という感情そのものが、すでに「悲しいときはこう振る舞うべきだ」という社会的な型をまとっている。そのため私たちは、自分なりの悲しみ方で喪に服すのではなく、ホックシールドのいう感情規則に沿った振る舞いを通じて、「自分はちゃんと悲しんでいる」と再帰的に確認しているのである。

むしろ「悲しみ」という感情そのものが、すでに社会的な“こうあるべき”という型をまとっており記号化しているともいえるだろう。つまり私は、ただ悲しみを感じていただけではなく、「正しく悲しんでいる自分」であろうとしていたのだ。だからこそ、「本当に悲しいならスマホを見るべきではない」という考えを自分の中で抱くこと自体が、「悲しみの正しさ」を証明する記号として機能していたのではないだろうか。人は本当に悲しみながら、同時に「どう悲しむべきか」も演じているのかもしれない。