喪に付しているときのコンビニは日常か、非日常か
しかし同時に、そのスマホは、「死よりも日常を優先する現代社会」そのものでもある。社会学者ジャン・ボードリヤールは、現代社会は「死を社会から追放した」と論じている。かつて死は共同体の中で共有される出来事であり、人々は死者を見送り、喪に服すことで、生者と死者の関係を社会の中に位置づけていた。しかし近代以降、死は病院や葬儀場、火葬場といった専門的な制度へと委ねられ、日常生活から切り離されていく。その結果、死は社会の中で共有される経験ではなく、できるだけ人目に触れないものとなり、社会は個人の死があっても立ち止まることなく動き続けるようになった。火葬場で遺体が焼かれている間でさえ、スマホには通知が届き、SNSは更新され続ける。世界は、自分の喪失とは無関係に流れ続けている。つまり私がスマホを開いていたのは、単に「不謹慎だった」からではなく、死によって揺らいだ自己を、流れ続ける日常へ接続し直そうとしていたからなのかもしれない。
また、哲学者のスラヴォイ・ジジェクは、大きな喪失や衝撃に直面した人間は、悲しみに圧倒されるだけでなく、むしろ日常的な振る舞いや事務的な作業に没頭することがあると指摘する。それは悲しみが浅いからではなく、あまりにも大きな現実を一度に引き受けることができないためである。
実際、親族が亡くなった時、私は火葬場での待ち時間に近くのコンビニエンスストアへ足を運んだ。飲み物を手に取り、商品棚をぼんやりと眺め、レジで会計を済ませた。その時、ある種の違和感を覚えた。
つい先ほどまで、自分にとって世界が崩れ落ちるような出来事が起きていたはずである。しかし、自動ドアをくぐった先には、何事もなかったかのような日常が当然のように広がっていた。新商品のポスターが掲示され、レジ横にはホットスナックが並び、店員はポイントカードの有無を確認し、「ありがとうございました」と挨拶をする。社会は個人の喪失とは無関係に、普段と変わらないリズムで動き続けている。そして私自身もまた、その日常の流れの中へ、ごく自然に組み込まれていた。しかし、その“いつも通り”は、逆に異様だった。自分だけが非日常にいるのに、社会は平然と日常を続けているという感覚だ。
止まらない社会
本来、死とは人を停止させる出来事のはずである。何も手につかなくなり、時間感覚が崩れ、世界との接続が切れる。ところが、ボードリヤールが指摘したように、現代社会では、その停止が長く許されない。コンビニは24時間営業を続け、SNSは更新され続け、通知は届き続ける。つまり消費社会とは、本質的に「止まらない社会」なのだ。
だから人は深い喪失の中でさえ、その「止まらない社会」の時間へと再び接続されていく。それは単なる不謹慎さではない。むしろ、自分の生活や存在をかろうじて維持するため“小さな現実”へ退避している状態ともいえるだろう。
もっと言えば、私たちは喪に服している最中でさえ、消費社会の外側へ出ることはできない。どの葬儀場を選ぶのか、どの規模の式にするのか、香典返しを何にするのか、喪服をどう用意するのか。式場ではBGMが流れ、自動販売機で飲み物を買い、仕事の電話が鳴れば応じ、帰り道にはコンビニへ立ち寄る。喪失という最も私的な経験さえ、現代では消費社会のリズムの中で営まれているのである。
人は悲しみだけでは生きていけない。だから食べ、飲み、買い、歩き、誰かと連絡を取る。消費は、人生を華やかにするためだけのものではない。悲しみの中でも、喪失の中でも、人が生き続けるために強制的に寄り添い続ける営みなのである。だからこそ、私たちは悲しみの最中でさえ、消費から離れることはできないのだ。
(※情報提供、記事執筆:ニッセイ基礎研究所 生活研究部 准主任研究員 廣瀬 涼)