感情は社会の期待によって形成される
しかし面白いのは、実際には「悲しみ」はそんなに純粋な感情ではないということだ。人は本当に大きな喪失に直面すると、故人のことだけを考え続けるわけではない。むしろ、お腹が空く、喉が渇く、眠くなるといった、妙に日常的な行動を挟み、自身の「生」を維持しようとする。悲しみは、映画やドラマのワンシーンのように「悲しみだけ」で構成されているわけではない。現実の感情はもっと散漫で、途切れ途切れで、生活に引き戻され続ける。それなのに私たちは、「本当に悲しい人はこう振る舞うべきだ」というイメージを持っている。
ホックシールドは、感情は決して「自然に湧き上がるだけのもの」ではなく、社会の期待によって形成されると言った。だとすれば、あの日私が感じた「薄情さ」も、純粋に私自身の感覚というより、「悲しみとはこうあるべきだ」という社会の理想像とのズレだったのかもしれない。「こうあるべき」という社会の理想像や、イメージ化した理想像のブリコラージュは、やがて〈記号としての感情〉を生み出し、私たちは実際の感情以上に、その記号へと自らを適合させようとする。
スマホによる社会への再接続
現代思想家のジュディス・バトラーは、人は他者との関係によって成り立っていると言う。だから親族の死で失われるのは、単に「その人」だけではない。その人に孫として接していた自分、その人に見守られていた自分、その人との関係の中にいた自分も同時に崩れていく。つまり喪失とは、他者の不在であると同時に、「その人と共にあった自己」の揺らぎでもある。
自己の輪郭が揺らぐということは、自分が世界や社会の中でどのような存在であったのかという感覚まで、一時的に不安定になるということでもある。火葬場で私がスマホを開いていたのも、悲しみから逃げたかったからというより、SNSやメールを通じて、「自分はまだ社会の中に存在している」と確認したかったからなのかもしれない。そう考えると、スマホは単なる情報機器ではなく、喪失によって揺らいだ自己を、社会へつなぎ止めるための装置だったようにも思える。