数年前、とても親しかった親族が亡くなったことをふと思い出した。もちろん、すごく悲しかった。火葬場で遺体が焼かれるのを待っている時間も、現実感がなかった。何かが決定的に失われた感じだけが、ぼんやり身体の中に残っていた。
でも、その待ち時間のあいだ、私はずっとスマホを見ていた。
会社のメールを開き、SNSを眺め、どうでもいいニュースを読んでいた。別に今確認しなければならないことなんて何もない。それなのに、気づくと画面をスクロールしていた。その時、少しだけ自分を薄情だと思った。本当に大切な人が亡くなったのに、自分は悲しみに集中できていない。もっと故人のことだけを考えるべきなんじゃないか。もっと取り乱したり、涙を流したりするべきなんじゃないか。そんな声が、自分の中にあった。
「スマホを見ている自分」「そんな自分を「薄情だ」と責めている自分」
政治哲学者ハンナ・アーレントは、人間は一人でいる(solitude)ときでさえ、自分自身との対話を行っている、という考えを展開している。人は自分自身と対話する存在であり、一人の中には常に「二人」がいる、というのだ。つまり私はあの日、「スマホを見ている自分」「そんな自分を「薄情だ」と責めている自分」の両方を抱えていたのだろう。
ただ、考えるべきなのは「なぜ私はそれを“薄情”だと思ったのか」ということだ。遺体が焼かれている間は、故人のことだけを考えているべきなのか。SNSやメールを見るのは不謹慎なのか。そう考えると、あの時私を責めていた声は、本当に自分自身の声だったのだろうか、とも思う。むしろそこには、「葬式ではこう振る舞うべきだ」「大切な人を失った時はこう悲しむべきだ」という、社会の感情のルールが混ざっていたのではないだろうか。