日本プロ野球では監督がチームの顔として過大な期待を受ける一方で、成功した場合の栄誉は大きい。

よい結果も悪い結果もすべて監督といった構図はなかなか変わらないようだ。

これに対してMLBの監督は単なるマネージャー(Manager)であり、現場を取り仕切る中間管理職的な役割である。

こうした違いは、Managerの訳語として監督という絶対権力感を伴う日本語を採用した影響が大きいのではないだろうか。

訳語には現実を変化させていく可能性があることを自覚せねばならない。

日本プロ野球における監督

先月行われた日本プロ野球ドラフト会議でちょっとした異変が生じた。

某球団から監督が参加せず、他の球団と1位指名候補が重複した際の抽選では監督ではない人がくじを引いた。

これについては本年から進めている編成と現場の分業方針に基づくとの説明があった。

それはその通りであろうが、これまでの実情を追認したという側面もあったように思う。

そもそも監督はドラフト会議の少し前まで一軍を率いて戦っていることが通例である。

来季に向けた要望を出す、指名候補のビデオを観るといった参画は当然あろうが、監督がドラフト戦略を詳細に主導するということは時間的にも体力的にも困難だろう。

それでもドラフト会議で主役のように振る舞うのは、わが国では歴史的に一軍を率いる監督が球団の顔を務めてきたからに他ならない。

プロ野球の監督とは厳しい職業である。

優勝すればすべて監督の功績として人格も含めて絶賛される一方で、勝てなければファンやマスコミから総攻撃を受ける。

特に今は新聞やテレビなどのオールドメディアのみならずインターネットの口コミやSNSがある。

昔は文字にまでならなかったファンからの悪口雑言が誰のスマホの中にも充満してくるのであるから、監督本人のみならず家族の精神的不安も大きいだろう。

とはいえ世間からの監督への期待は大きい。

試合での指揮は当然のこととして、ドラフト・トレード・FAによる有力選手の獲得、若手選手の育成、練習環境の整備、球場への集客、それらすべてをひっくるめてのオーナーとの直談判などだ。

1人ですべて対応できるとは思えないし、球団内で実際にどれほどの権限を与えられているか外部からは知りえないにも関わらず、世間からの期待をすべて背負って戦うのが日本プロ野球における監督である。

反面、成功した場合の栄誉は大きい。

その年のプロ野球で最も功績のあった監督や選手を表彰する「正力松太郎賞」は基本的に日本シリーズ優勝監督に贈られる。

監督1人の努力だけで日本シリーズ優勝を果たせたわけではないだろうが、過大な責任を背負わされるのと同様、栄誉も属人的に与えられると言ってよい。

編成と現場の分業やジェネラル・マネージャー制度が叫ばれて久しいものの、よい結果も悪い結果もすべて監督といった構図はなかなか変わらないようだ。

MLBの監督は単なるマネージャー

筆者が米国に在住しテレビでMLBを観始めた20数年前、拍子抜けすることがあった。

MLBの監督はエグゼクティブもジェネラルも冠されない単なるマネージャー(Manager)と知ったときだ。

これ以前に筆者は海老沢泰久氏による「監督」という小説を読んだことがあったが、監督という特殊な職業だから小説になりうるのであって「マネージャー」という素っ気ないタイトルの本を手に取る人がいるものだろうか。

もちろん日本においてはカタカナでマネージャーと表現されるものの、価値が米国のそれに比して不当に低くなってしまっていることは割り引かなくてはならない。

どういうわけか日本では、部活動をする選手たちのためにお茶を手配するとか、芸能人を車で送り迎えするとか、お世話係のようなイメージが強い言葉になってしまっている。

一般に米国社会におけるマネージャーはそうではない。

その大きさは組織によって区々であるが、一定の職責を与えられ、それを遂行するために予算も持てば人事権も行使する立場である。

例えば映画「マネーボール」において、ブラッド・ピット演じる某球団のジェネラル・マネージャーが自ら有望と信じる選手を試合に出すようマネージャーに要請するものの、マネージャーは無視して他の選手を使い続ける。

現場を預かるマネージャーには試合に勝つという職責があり、そのために選手起用の権限が与えられているのだから全く譲らない。

ジェネラル・マネージャーに従ったところで、負ければ真っ先に責任を問われるのはマネージャーであるからだ(ちなみにこの膠着状態を受けて、ジェネラル・マネージャーがどのような対抗措置を取ったかは是非映画を視聴してご確認いただきたい)。

とはいえマネージャーは中間管理職であり、権限は現場に限られる。有力選手の獲得などチーム編成は対象外である。

MLBでは記者投票によってリーグごとに最優秀監督が選ばれるが、その監督が率いたチームが最終ステージであるワールドシリーズに出ていることは少ない。

過去10年間両リーグで20名の受賞者のうち2名だけである。

豊富な資金で実績のある選手をかき集めて勝ったとしても、それは編成の功績であってマネージャーの功績ではない。

所与の戦力でどう試合を指揮したかが評価ポイントになる。

本年、ロサンゼルス・ドジャースの監督が巨大戦力を率いてワールドシリーズを制覇したものの、最優秀監督の候補3名にすら入らなかった。

監督という訳語

日本で最初にベースボールを野球と翻訳したのは1894年の中馬庚氏と伝わる。

同氏が1897年に刊行した「野球」によれば、当時はまだ米国にも監督は存在せず、選手の間からキャプテンを選んで監督の機能を果たしていると認識していたことが伺える。

同氏はキャプテンを翻訳することなく、そのままCaptainと表記している。

プレーをしないのに試合に参加する者が想定されていなかったのだろう。

時代は下がって1928年、藤井英男氏が「野球用語」という35頁ほどの本を出版し、その中でマネージャー(Manager)は監督と訳されている。

同書は日本語における不適切な野球用語を正していくことを目的に書かれたとのことだが、その緒言において「現在慶応の監督腰本君とは知友の関係で」と当然の如く書かれている様子から推し量ると、マネージャーの機能を果たす者に監督という訳語は既に定着していたのだろう。

なぜ監督という、かなり厳めしい訳語が採用されたかは不明である。

当時の感覚は現在と異なっていたのかもしれないし、日本のいわゆる体育会気質の中では自然な選択だったのかもしれない。

さておき、マネージャーと監督ではその仕事の印象が大きく異なる。

米国のマネージャーはあくまで組織における中間管理職の雰囲気が強く、より上位の役職者がいるものと想定される。

そのため責任範囲が現場から広がることはなかったのだろう。

他方、監督という厳めしい言葉には絶対権力感が伴い、すべてに責任を持つような、あるいは現場だけでなく球団そのものも管理下に置くような期待が醸成されていったものと思う。

同様に考えてみると、日本では全能感が漂う映画監督も米国では単なるディレクター(Director)である。

プロ野球でも建設工事のように「現場監督」と表現していたならば、米国のマネージャーと同様の職責に止まっていたのではないだろうか。

上記は筆者の推測に過ぎないが、海外事例を紹介することも多い研究員としては、訳語が現実を描写するだけでなく、日本での現実を変化させていく可能性も自覚した上で、慎重に文章を紡いでいく必要があると感じている。

(※情報提供、記事執筆:ニッセイ基礎研究所 保険研究部 主任研究員・気候変動リサーチセンター兼任 磯部 広貴)

※なお、記事内の図表と注釈に関わる文面は、掲載の都合上あらかじめ削除させていただいております。ご了承ください