1945年7月10日の仙台空襲から80年です。アメリカ軍の爆撃機によって市街地が攻撃され、多くの人々の命、そして歴史的な建物の数々が失われました。
かつての街並みの面影を残す場所は、ほとんど残っていませんが、戦火を乗り越えた「石蔵」が仙台の中心部にあります。あの日のことを今に伝える戦争の爪痕をたどります。

仙台市青葉区の戦災復興記念館では、7月5日から5つの企画展などを含む戦災復興展が開かれています。

企画展のうちの1つを手がけた仙台・空襲研究会は、西公園付近に造られた民間用の防空壕についての調査を続けてきました。

仙台・空襲研究会 新妻博子さん:
「防空壕に入れなかった方が外で小さい女の子が真っ黒になって倒れていて…」

見学した大学生:
「戦争が本当になくなる未来、全世界が平和になるために自分にできることはなんなのだろうと考えていきたい」

1945年7月10日未明にアメリカ軍のB29爆撃機123機が仙台上空に飛来。

爆撃の中心点は、現在のクリスロード商店街と東三番丁通りが交差する地点で、死者は約1400人にも上りました。

仙台・空襲研究会 新妻博子さん:
「都市機能が麻痺するので、そういうことを狙っていた。特に二日町の場合は逃げてくる人がそのルートを通って、防空壕の中も多いが、逃げた途中で亡くなっているのが私が調べた中では多い」

市街地への攻撃によって、民間人に大きな被害が出ただけでなく、仙台城大手門などの建造物も焼失し、仙台の歴史と文化の象徴が戦火によって失われました。

仙台・空襲研究会 新妻博子さん:
「(戦争が)どういう経緯で起こったのか、止めるとしたらどこだったのか、
どこかで止められたんじゃないかって歴史を勉強して自分なりに確認することが大切なのではないか」