■行方不明の娘 母が記録したノートには


比呂子さんは、千尋さんの行方が分からなくなってから、警察とのやり取りや、市民から寄せられた情報などを、ノートにまとめています。


2014年6月7日(土)午前9時ごろ、千尋さんは広島市佐伯区の五日市駅南口からバスに乗り、勤務先の広島市植物公園に向かいました。

千尋さんは、この年の4月から植物公園で臨時職員として働き始め、「ベゴニア」という花の栽培管理を担当。正職員に本採用されることを目指していました。

(母・藤野比呂子さん)
「千尋は『一生ここで働き続けたい』と言っていました。こどもの頃から自然が好きで、山や川を走り回ったりする子。大学でも園芸を学んでいました」

勤め始めて2か月。当日の勤務を終え、運転免許をもっていなかった千尋さんは、いつものように職場の先輩に車で3分程度の「地毛バス停」へ送ってもらっています。先輩と別れたのが、午後6時ごろでした。そしてこれが千尋さんの姿が最後に確認された時間でした。

■がんの闘病 娘との思い出


千尋さんは市内の公立高校を卒業後、長野県の国立大学に進学しました。離れて暮らす母に、電話口の千尋さんは、大学の講義や所属していた少林寺拳法部の話をよくしていたそうです。


千尋さんが高校2年の年、比呂子さんは乳がんを告知されました。それ以降、抗がん剤やホルモン療法など闘病生活は10年以上続いています。

「お母さんはきっと長生きするよ」大学受験で自身も大きなストレスを抱えるなか、当時、千尋さんは比呂子さんを思い、温かい言葉をかけ続けてくれたそうです。センター試験に持たせたお弁当、合格発表に喜ぶ横顔…。比呂子さんは当時のことをまるで昨日のことのように語ってくれました。

千尋さんの入学後には、比呂子さんは長野県まで夫と息子の3人で遊びに行ったこともあるそうです。離れて1人暮らしをする娘を、心配しながらも、たくましく感じていたそうです。

比呂子さんのもとに、千尋さんが過呼吸で倒れたと突然連絡が入ったのは、千尋さんが大学卒業を目前に控えた冬のことでした。片道7時間をかけて久しぶりに再会した千尋さんは、憔悴しきった様子だったそうです。

(母・比呂子さん)
「千尋が大学に入学した年に、夫が急死しました。お父さんっ子だった千尋はとてもショックを受けていたと思います。それでも懸命に生活をしていたようですが、就職活動のストレスで心身ともに疲れ切ってしまったようでした」

千尋さんは、大学院への進学を希望していましたが、これを断念し、4年生の秋から就職活動を始めていました。「就職氷河期の再来」とも言われたこの年、開始時期が遅かったこともあり、就活は難航していました。体調はなかなか回復せず、千尋さんはアパートを引き払って、広島の実家で療養することになりました。

■大学卒業、念願の職場へ


千尋さんの大学の卒業式には、広島から母子連れ添って長野県に行きました。千尋さんの体調は万全ではありませんでしたが、それでも友人らとの久しぶりの再会を楽しみに、力を振り絞っていたといいます。


(母・比呂子さん)
「千尋は部活動の先輩たちが大好きでした。体調が不安でしたが、袴を着て友人らに会うと、ひさしぶりに元気な笑顔を見せてくれました」

卒業後、千尋さんは実家で体調を整えながら、母の比呂子さんと弟の3人で暮らしていました。母の闘病と自らの療養…。就職活動が再開できるようになるまでに、3年の歳月が経過していました。

そして2014年4月、千尋さんは念願の就職を果たします。かねてより希望していた、園芸に関わる仕事でした。

「その日、千尋から電話がかかってきました。『植物公園から臨時職員として働いてみませんかと言われた』と。回答までに猶予をもらったようでしたが、翌日には喜んで必要書類を持って行きました」

その時に撮影した写真を、いま行方不明のポスターに使っているといいます。