「合わす手がガタガタふるえ…」最愛の娘に自ら火をつけ…

恒子さんは、原爆投下から5日後、息を引き取りました。まだ16歳でした。
しげ子さんの手記より
「十一日午前八時すぎ死亡したので当時専売局に暁部隊があったので、隣組の青年達が担架に乗せて連れて行ってくださった。
兵隊さんが二、三人、大きな丸太棒をつみ重ねた上に死体を置き、私に『火をつけよ』と云われた。一瞬私は茫然自失の有様になった。
皆さんは待っていらっしゃるし、兵隊さんにはせかされ、せっぱつまって涙ながら心で詫びながら火をつけた。私はとてもじっとしていることは出来なかった。
合わす手もガタガタふるえ、涙は滂沱(ぼうだ)と流れた。サヨーナラ、サヨーナラ。どうぞ安らかに眠ってください。余りにもむごたらしくて、ふり向く気にはどうしてもなれなかった」

2人の娘を失い、しげ子さんは失意の底にいました。それでも、出征した長男の孝彦さんが、元気に生きてくれていることが分かりました。「何十日ぶりかに生き返った気持ちになった」。しげ子さんは、その時の心情をこう綴っています。
そして月日は流れ、孫が生まれました。しげ子さんの手記は、こう締めくくられています。
しげ子さんの手記より
「かくて星うつり年かわりて長男もやっと結婚した。やがて次女によく似た赤ちゃんが生まれた。
私はこの孫が生まれた日から1日もかかさず神仏に元気でかしこく育ちますよう祈らぬ日とてはない。
戦争なんて、もうもうこりごりだ。何時までも何時までも平和でありますよう祈りつつ鉛筆をおきます」
この手記は1968年2月、当時小学校2年生だった孫に「家族の思い」として、したためられました。孫のためだけに書き残した手記でした。しげ子さんは、この手記を書いた6年後に亡くなりました。