沖縄戦から80年が経ちました。沖縄の80歳以上は、人口の7%です。日本全体でも90%が戦後生まれになり、近い将来、戦後世代しかいない沖縄がやってきます。【戦後80年 #あなたの623】は、胸の奥にしまい込んできた辛い記憶。家族のなかで避けてきた戦争の話題。今しか話せない大切なこと。今だから話せる戦争のことを聞いていく、シリーズ企画です。

舞台役者・仲田幸子さん(92)#あなたの623

舞台役者・仲田幸子さんは、ウチナーンチュの心に笑いを届けて70年あまり。喜劇の女王」と呼ばれています。笑いに人生を捧げる仲田さんの80年前の記憶。

▼仲田幸子さん(92)
「学校では勉強なんて全然教えない。壕に入る練習をしたり。(空襲警報の歌) “空襲警報聞こえてきたら、今は僕たち小さいから、大人の言うことをよく聞いて、慌てないで、騒がないで、落ち着いて、入ってみましょう防空壕” この歌を習い始めた」

喜劇の女王と呼ばれる仲田幸子さん(写真:1991年 RBCのテレビ放送から)

太平洋戦争末期、小学生だった仲田さんは、勉強よりも防空壕に隠れる練習が日常でした。

「アメリカは強いかもしれないが、日本が一番。必ず日本が勝つと、先生から教えられていた」戦争の足音が近づくなか、九州に疎開していく友人たち。早くに母親を亡くした仲田さんは、貧しい家庭環境のため船賃を払えず、多くの友人が乗った学童疎開船・対馬丸の出航を見つめたといいます。

「羨ましかった。涙を流した。 “10円もないような親もいるかね” と思いながら…みんなが綺麗な格好をして、船に乗ったりあちらこちら行く時は涙を流した」

しかし、対馬丸は米軍の攻撃を受け沈没。その後、仲田さんが住む那覇の街にも戦争が忍び寄ります。1944年10月10日、米軍の攻撃により那覇の9割が焦土と化した「10・10空襲」です。

友人らが九州に疎開するなか 仲田さんは貧しさから疎開できなかった