泣き虫で気弱な母親が気丈にふるまう 残酷な45年間
めぐみさんの親友・恵美子さんの母親である真保節子さん(90歳)は、めぐみさんがいなくなった当時の早紀江さんの様子が忘れられずにいるといいます。

【親友の母親・真保節子さん】
「めぐみさんが北朝鮮に拉致されたと分からないうちは、前の方に似たようなお嬢さんが歩いていると、『自分の子ではないのか、もしかしたら…』という思いがあるのか、走って行って顔を見るんですよね。走って行って、そのお嬢さんの顔を見て『やっぱり違った』っておっしゃるあのがっかりしたお顔を思い出すと…。本当に残酷な45年でございましたね」

めぐみさんがいなくなった当初、めぐみさんの自宅には「自分が娘を連れ去った」という心無い電話が掛かってきたこともありました。

【横田早紀江さん(当時73歳)】
「気が弱い泣き虫の、“早紀江さん”というより、“ナキエさん”と呼んだほうが早いというくらい、泣き虫の人間でありましたけれども…」

節子さんが見たのは、泣き虫だった早紀江さんが、娘の命をつなごうと必死に受話器を握る、気丈な“母の姿”でした。

【親友の母親・真保節子さん】
「親でなければ、こんなの嘘だと思ったらバチンと電話を切ってしまうんでしょうけど、辛抱強く、80%・90%騙されていると思っても、あとの1%・2%にでも賭けて、めぐみさんが帰っていらっしゃるのを本当に、待って、待って、待っていらっしゃった」
拉致から25年たってから北朝鮮が謝罪 そこからまた20年…

その後、1997年に、めぐみさんの拉致疑惑が浮上。

2002年に、北朝鮮は初めて拉致を認めて謝罪しましたが、めぐみさんは帰国を果たすことができないまま、時間だけが過ぎています。

【めぐみさんの母・横田早紀江さん】
「本当にあの人は元気いっぱいの人だったのにどうなったかなぁ…本当に。全然わからないですよね…」

新潟の空、空気、そして海…。
拉致によって、その全てがつらく切ない思い出になってしまいました。

【横田早紀江さん(当時71歳)】
「私たちは泣き苦しんで…。本当に新潟時代のあの景色は思い出したくもないほど悲しいものです。雪も桜も海もみんな悲しくて、それを一生懸命に抑え込んで、何とか頑張ってきました」

そんな早紀江さんが、最近こぼした言葉があります。
それは、私たちも初めて聞く、めぐみさんへの、そして新潟への思いでした。

【めぐみさんの母・横田早紀江さん】
「とにかく元気でいてほしいんです、帰ってくるまで。日本の土を踏んでほしいと思っているので。“新潟のあそこの地点まで戻してあげたい”。『ここから消えちゃったんだからね』って言ってね、『でもよく帰ってこられたね』って言って。嫌な思いでしょうけど、これであなたは完全に帰れたよ、もうここで終わりという感じ。もう忘れましょうという感じでね」
始まりの地で 長い闘いの日々に終止符を打ちたいー
帰国しためぐみさんと一緒に新潟を訪れ、あの日に何が起きたのか、めぐみさんの口から真実が聞きたい。そしてこの長い闘いの日々に、始まりの地で終止符を打ちたいー。45年もの間、娘の無事を信じ再会の日を待ち続ける母の願いです。

一日も早く、一刻も早く。
そう願うのはめぐみさんの同級生も、早紀江さんの友人も同じです。

【めぐみさんの親友・真保恵美子さん】
「節目って言いますけど、節目なんてあっちゃいけないんですよ。45年たつ5日前だろうが1週間前だろうが、1分1秒でも早く返してほしいわけで」

【親友の母親・真保節子さん】
「ご主人の滋さんも亡くなりましたけれども、亡くなるまで『めぐみちゃんに会いたい、会いたい』とおっしゃっていたそのお声が耳の中に残っていまして…」

母は、娘は、もう45年も闘い、待っているのです。
【めぐみさんの母・横田早紀江さん】
「これだけの大変な犠牲にあった日々がね、『大変だったけど、帰国できてよかったね』って、みんなが『よかったね』、『ありがとう』って言ってあげたいと思いますね」

早紀江さんは、被害者の救出を果たすことで、めぐみさんと家族の“奪われた45年”を、日本と北朝鮮の両国にとって“意義のあった45年”にしたいと話しています。

「許されるのなら、北朝鮮に乗り込んででも被害者を取り返したい」と考える家族の思いに、政府は本気で向き合っていると言えるでしょうか。
国の覚悟が問われています。