戦後間もないころ伊江島で起きたアメリカ軍の船の爆発事故で父を失った男性。その後アメリカ兵の家族に養子として引き取られ、自らもアメリカ兵としてベトナム戦争などに従軍しました。沖縄とアメリカのはざまで、時に葛藤を抱えながら生きてきた、 81歳となった男性の今の姿を取材しました。

嘉手納基地内の一角にある一本道「Jimmy’s way.」
この道の名前の由来となったのは、今年81歳になる主和津ジミーさんです。

主和津ジミーさん
「Jimmys way というのは僕が嘉手納基地のために一生懸命Jimmy’s way をやったおかげでこの名前を貰った」
沖縄とアメリカ間を生きてきたジミーさんの人生と、今思うこととは。

北谷町にあるジミーさんの自宅を訪ねました。
幼少期を伊江島で過ごし、基地の中で育ったジミーさん。
アメリカ軍の部隊の前に座り微笑む 小学3年生の男の子が当時のジミーさんです。

主和津ジミーさん
「これがたつおジミー。I was born in Tokyo and after the war we came back because my dad.(私は東京で生まれ、戦後父の都合で沖縄に戻ってきました)」

1940年に生まれたジミーさん、もともとの名前は幸地達夫。
太平洋戦争を東京で経験し、防空壕に逃げる日々を送りました。
軍専属の通訳官だった父と伊江島に戻りましたが、幸地家の運命は一変します。
1948年8月、一家の大黒柱だった父が、アメリカ軍弾薬処理船の爆発事故に巻き込まれ亡くなったのです。

事故後母や兄弟と貧しい生活を送っていたジミーさんは軍に引き取られました。
そんなジミーさんに転機が訪れます。


主和津ジミーさん
「(シュワツ家の)お父さんがある日。食事するとき、ジミー我々とアメリカに一緒に行かないかっていうことで。もうそれを待ってました、お願いしますと言って」

友人の父でもあったシュワツ牧師が養子として引き取ることになりました。
シュワツ一家の一員となった達夫少年は、主和津ジミーとなり、一家とアメリカに移住。18歳を迎えたときにアメリカ軍に入隊し当時戦況が激しくなっていたベトナム戦争に参加しました。

主和津ジミーさん
「いやーもう怖かったね。僕の一番の友達が帰ってこなかったその時」

負傷したベトナム兵を救助する任務を担当していたジミーさん。
悲惨な状況を目の当たりにしました。

戦地での経験は今でもジミーさんの脳裏に焼き付いています。

主和津ジミーさん
「もう下からボンボンやってるのに。ヘリコプターも落ちたことある。僕が乗ってるヘリが」

日本とアメリカの2つのアイデンティティを持つジミーさんはベトナム戦争から戻ったのちハワイに赴任した時には、日本とアメリカの歴史の間で苦しみました。


主和津ジミーさん
「真珠湾というところ見るのはむずかしかった 僕には。戦争を思い出すので
僕を許してください。と祈ったときに心が軽くなった気がした」

日本がアメリカに対し奇襲攻撃を行った真珠湾に足を運ぶにも20年かかったというジミーさん。
戦地を経ても故郷沖縄への思いは変わらず、沖縄に戻り沖縄の家族や友人に恩返しがしたいと、当時の高等弁務官の側近である一等特技官になります。


沖縄とアメリカの間で葛藤しながらもジミーさんが大切にしていることがあります。

主和津ジミーさん
「色んな米軍を非難するとき、なんか色んな事故のあとに本当にぼくはつらいとき何回もある。それで一生懸命僕なりにアメリカのことをできるだけいいところを見せようと思って、一生懸命やって。それで僕は色んな施設に行って、子供たちと遊んだり」

平和を願うジミーさんは81歳になった今でも各地で子供たちとの交流を大切にしています。

主和津ジミーさん
「その国の特徴のところを最初に勉強して皆さんに迷惑をかけないように歴史を勉強して。僕は日本人というとちょっと抵抗があったけど、沖縄の人ですよ、というとOh, are you Okinawan?と言うとトーンが変わってね」

沖縄とアメリカの間を生きながら第二次世界大戦とベトナム戦争の悲惨さを経験したジミーさんにことし始まったウクライナ侵攻はどう映るのか聞きました。

主和津ジミーさん
「もう正直言ってみたくない。そういうことみたから。我々が東京、第二次戦争もちょうどああいう焼け跡。ベトナム戦争でもたいへん見たくもないところも見ないといけないし、もうその犠牲になってる人たちの気持ちわかるので。本当に早く平和を迎えてくれたらなと思う」

沖縄とアメリカの間を強く生きるジミーさんの願う平和を私たちも考え続けなければなりません。

【記者MEMO】
ジミーさんは81歳となった現在でも自らの足で県内の施設などを訪れ、子どもたちとの交流を続けているということです。