LGBTとSOGIと〜札幌の当事者たちの意見〜

 HBCで行った意見交換会。そのトークの内容は多方面に渡りましたが、その中でも「自分たちを言い表すのに、どんな表現を使うべきなのか」という話題は、かなりの盛り上がりを見せました。

 周囲にバイセクシャルであることを隠していないという、高校生のまるさん。彼は 「LGBT」「LGBTQ」という言葉を「性的マイノリティ」と同義に扱うことに違和感があると言います。

まるさん

「僕個人の意見としては、それは間違ってると思ってます。別に僕達の生き方って変わらないじゃないですか、ストレートの人と。マイノリティって表現を使うと、のけ者というか、はぶられているというか、異端児のような捉えられ方をしてしまう。シンプルに属性を表す『LGBTQ』という言葉がセクシュアルマイノリティと同じような意味で使われているのは、それは違うだろうと毎回思うんです」

 まるさんが生まれたときにはすでに「性的マイノリティ」「LGBT」という言葉が使われていて、彼はその意味や語法について、そういうものだと受け入れてしまったところがあると言います。30代のあたしとしては「とうとうそんな世代が現れたのね……」と驚く気持ちでしたし、「LGBT」という表現についても、実は単なるセクシュアリティの羅列ではなく、政治的なメッセージの発信のためにそれぞれのコミュニティが連帯してきた歴史に紐付いているのだよなぁと、まるさんの言葉を聞きながら思っていたところがあります。ですが、彼の語りには不思議と興味を惹かれるところがありました。

 まるさん自身は、近年用いられるようになってきた「SOGI」という言い回しに、可能性を感じているそう。

「SOGIという言葉のほうが今の社会にあっていると思います。ストレートを含む性のあり方全体表すものなので。今保健の授業で中高でもLGBTについて取り扱われるのですが、先輩や先生が『LGBTQ、“そういう人たち”がいます』とその中で言ったりする。“そういう人たち”ってなんだか、 『この教室にはいなくて、でも世の中にはいます』という意味に感じるんだけれど、『マイノリティ』って単語の意味と同じで、何も変わらないただの人間なのに、当事者がのけ者にされていると思う。そういうのを防ぐために、SOGIという言葉が正しく使われるべきだと思うんです」

「性的指向と性自認(Sexual orientation and gender identity)」の頭文字を取って作られた「SOGI」という表現は、人権課題としての性について、多数派も含めたすべての人が身近な出来事として考えられるよう促すものです。

 まるさんと同じような問題意識から、その使用を推奨する人を国際的な規模で多く見かけるようになってきました。確かにこの語は「LGBT」などと異なり、性的マイノリティとマジョリティの間に境を設けないのが特徴です。「当事者も非当事者と等しく、ひとりの人間として存在しているんだ」と主張するための足がかりとしては、他の語にない可能性を秘めていると言えるでしょう。

 ですが、境を無くすということは、当事者が当事者として事実抱えている問題を見落とすことにもつながりかねません。Eさんはその点を指摘します。

左から満島てる子さんとEさん

「SOGIという言葉には危うさがあると思います。言いたいことはわかるけど、それって一歩間違えると、シスジェンダーでヘテロセクシャルのマジョリティだろうが、そうでなかろうが、なにもかも含めて『みんなちがってみんないい』になってしまう。
その後に 『だから何もしなくていいよね』『差別しなきゃいいんでしょ』という風になってしまうとしたら怖いし、何も変わらない。
『セクシュアリティはそれぞれ個性』みたいな言葉を使う前に、本当に結婚したい相手と結婚できるようにしてくれと思うし、自分が思う性別になりたいときになぜ健康な臓器をとらないと戸籍を変えられないのかとか、そういう問題を無視したままで、なんとなくハッピーな世界に変えられるのは、とっても恐ろしいと思うんです」

「誰もが同じ人間なんだ」というアプローチではなしえない、「こんなことに私たちは困っているんだ」という、LGBTだからこそ出てくる主張や訴え。そこに目を向けさせる必要があるんだというEさんの言葉は、あたしにも突き刺さるものでした。

近頃、多様性や平等といったコンセプトを絡めた取り組みや報道をよく見かけるようになりましたが、ともすればそれは「多様であればOK」とか「等しければ大丈夫」という、安易な着地点に落ち着きかねません。ですが、もっと真剣に事と向き合うならば、その多様性・平等というフィルターに隠されている問題はないか、そうした概念の裏に今何があるのかを、現実として直視するべきだと言えます。

またEさんは、自身の経験をもとに、性的マイノリティの問題を扱うにあたっては、より実状に沿った、解像度の高い言葉を丁寧に使うべきだとも語ってくれました。彼女が例として挙げたのは、自身が取り組んでいる訴訟の話です。

違憲判決当日の裁判所前での一枚

「同性婚という言葉には、私はすごく排除的なものを感じるんです。『結婚の自由をすべての人に』とか『婚姻の自由』という表現を使ってほしい。
だって、同性婚という表現だと、これって同性を好きになる人のための制度だと思われてしまうけれど、私が求めているのは、この人と結婚するかしないか、自分で選べる権利を性別関係なくくださいってこと。
言葉として長いから、メディアが短く『同性婚』とまとめたくなる気持ちはわかるけれど、多様な当事者の姿、多様な家族のありかたを国や社会が受け入れるきっかけになってほしいというのがそもそもの願い。だからこそ、同性愛者のための制度と思われるような報道の仕方には危惧を感じます」

たくさんの人にとってわかりやすく、かつ「自分事」と思ってもらえる方向性と、当事者にとってのリアルにフォーカスをきちんと当て、それを発信する方向性……報道にあたってそのどちらを重んじるべきか、どうバランスをとるべきか、これは非常に難しい問題でしょう。

メディア側としても、受け取る側としても、そこには様々な考え方があると思います。
しかも、「LGBT」「SOGI」「同性婚」「婚姻の自由」といった語彙のレベルから、どのような場面を取り上げ、どうストーリーを織りなすかといった段階まで、その全てに関わってくる問題であるため、なかなかシンプルに「こうすればいい」という結論が出せるものではありません。

ですが、だからこそこの問題について、その都度再考し何度でも思いを巡らせることが、「取材」という事柄に関わる人間には常に求められるのだろうと思います。そして、その逡巡の先に、社会の変化につながる報道というものが見えてくるのかもしれないと、メディアの発信に携わるひとりの人間として、そんな希望を抱いたりもしています。