翌日になって熊﨑ら3人は、課題を洗い出した意見書を持参し「所得計算は1年単位で収入と支出の差を求めて決めるが、ワリシンを購入した原資(現金)がその年の収入かどうか特定できない」という問題点を指摘した。

金丸元自民党副総裁を取り調べた熊﨑勝彦主任検事(1993年3月)

ここでも五十嵐の決意は揺るがず、こう切り返した。「ワリシンの購入日は盆と暮れに集中しているので、ゼネコンからの献金に間違いない。所得発生の時期の特定は可能だ!そんな法律問題より、今、検察と国税が多額のワリシンの存在を把握したのに、何もしなかったことの方が問題だ!誰が何と言っても俺はやる。俺についてくるかどうかだ!」と迫ったのだ。熊﨑は五十嵐の迫力と熱意に押され、「部長がそこまでの覚悟ならやります」と不安を振り切り、腹をくくった。そして吉田、北島両検事も熊﨑に従うことになり、賽は投げられた。

五十嵐は熊﨑に「熊ちゃんは主任検事として起訴状に署名してもらうが、金丸の取り調べに専念してくれればいい。全体の指揮は私がとる」と話していたが、特捜部長としての日常業務もあり、激務だった。
そこで、当時東京高検に出向中で、独禁法違反事件の判決待ちだった、熊﨑の同期の横田を総括責任者として補充した。こうして、ここに「主任検事」の熊﨑勝彦、吉田統宏、北島孝久、横田尤孝という4人による「極秘捜査チーム」が編成されたのだ。

4人の「対策本部」は検察庁舎8階の一室に置かれた。法務・検察内部でこの動きを知っていたのは五十嵐特捜部長と「極秘捜査チーム」の4人以外は、ごく一握りの検察幹部だけだった。熊﨑は日頃から気心の知れた腹心の部下である吉田と北島にも厳しく口止めした。

筆者は当時、副部長の熊﨑に密着して張り付き、毎日ひたすら追いかけていた。ふだんは駒場東大前駅から霞ヶ関駅までの電車通勤、「駒場エミナース」の喫茶店、また時には渋谷駅まで20分、およそ1,5キロの散歩。また事務官OBの理髪店、夜は駒場東大前のスナック、淡島通りと旧山手通りの交差点の洋食店、休日はサウナなど接触場所は都度変わるが、常に息遣いや表情、しぐさ、言動の変化を見逃さないよう観察し、注視した。

筆者の1993年のスケジュール手帳を見ると、2月から3月にかけて熊﨑は、午前3時や4時に帰宅することもあり、接触しにくかった状況が確かにうかがえる。金丸逮捕前夜の1993年3月5日、熊﨑は官舎のある駒場東大前に近いフランス料理店に妻と子供3人を連れ出した。
具体的なことには触れずに「パパはあす大きなことをやらないといけない。もし失敗したら、検事をやめて故郷に帰って弁護士になる」と家族に決意を告げたそうだ

それから6年後の1999年1月21日、筆者の手帳には「熊﨑さんのお父様葬儀 岐阜・下呂へ行く」と記されていた。下呂の実家に初めて伺ったときだ。「父は私と違って無口だったが、見えないところで人のために尽くす人だった」「額に汗して働く善良な人間が報われない世の中はおかしいと、司法試験をめざした・・・合格したとき父は誰よりも喜んでくれた」熊﨑のそんな挨拶を聞いて、実家に一泊させていただいた。空気が澄み渡り、飛騨の山が美しかった。どんな局面でも下呂の美しい原風景と父の影はいつも、不正に切り込む熊﨑を支えていた。

のちにプロ野球コミッショナーとなる熊﨑だが、相手の心を掴んで「落とす」ことに優れた「落としの熊﨑」、「割り屋」と呼ばれる一方で、「証拠」に対する「評価」は、人一倍厳しかった。
「熊さんは何がすごいかと言えば、捜査中の事件の危機管理が半端じゃなかった」と特捜部で部下だった中村信雄(現、弁護士)も言う。
「どこからもケチをつけられないよう、確実な証拠だけしか上に報告しなかった」(同上)
「事件は生き物、証拠に愚直に、粛々とやるだけ」とよく言い、部下にとっては極めて緻密で慎重な法律家の一面を覗かせていた。熊﨑はこの日、家族との食事の後も、政界の最高実力者、金丸信と一対一でどう向き合うか、用意周到に戦略を練り上げ、気持ちを整理したという。

あらゆる「情報漏れ」に目配せ

強制捜査着手の当日、出勤してきた特捜部の他の検事はもちろん、家宅捜索の配置についた事務官たちにも一切、何の案件なのか、知らされていなかった。さらに当時の関係者によれば特捜部はこの日、金丸の身柄を拘束するための「逮捕令状」や金丸事務所のある「パレロワイヤル」や港区の金丸邸などへの「捜索差押許可状」を、東京地裁に請求する際も、裁判所から情報が漏れないように、寸前のタイミングまで待って、令状請求したという。あらゆる「情報漏れ」に神経を尖らせながら、静かに金丸包囲網を固めていったのである。

金丸の取り調べに付き添っていた検察OBの弁護士は、「キャピトル東急ホテル」に出頭してはじめて特捜部の「狙い」が、所得税法違反(脱税)だと知った。検察OBの弁護士は、特捜部の目的は、あくまで前年の政治資金規正法違反の事後処理として「形式的な金丸への事情聴取」だと、たかをくくっていたという。実際には、前年の処分に対して「検察審査会」が求めた捜査の見直しに対する聴取という主旨も含まれているため、だまして呼び出したことにはならない。極秘捜査が功を奏し、金丸側に情報は漏れていなかったということだ。

3月6日の電撃逮捕の翌日から主任検事の熊﨑は20日間、小菅の東京拘置所に出向いて拘置中の金丸の取り調べを続けた。この間、金丸はあらたに現金「10億円」を金沢の親戚に預けていることを、熊﨑に打ち明けた。熊﨑は「特殊直告班」の検事を金沢に派遣して裏付けをとったところ、屋根裏部屋から段ボール4箱の「現金」が見つかった。これは「ワリシン」を現金化していたものだったが、金丸の最終起訴処分(公判請求)に向けて、金丸本人だけが知り得る、秘密の暴露とも言える重要な証拠となった。

3月27日、金丸脱税事件における「最終起訴処分」発表の記者会見、検察庁20階の会議室に検察首脳の顔がずらりと並んだ。このスタイルは国会議員を起訴する場合の慣例となっている。
五十嵐特捜部長は「不透明な政治家の資金に対して、課税処分だけでなく、刑事事件としての所得税法が有力な武器であることを確認できた。特捜部の財産が一つ増えた」と締めくくった。
国税との連携プレーによる「新しい武器」、そして身内もあざむく徹底した「極秘捜査」によって、検察は前年のどん底から這い上がり、復活の狼煙を上げた。ペンキで汚れた石碑は再び輝きを取り戻したのだ。(#3へつづく

TBSテレビ情報制作局兼報道局
「THE TIME,」プロデューサー
 岩花 光

■参考文献
村山治「特捜検察vs金融権力」朝日新聞社、2007年
村山治「検察vs政界 経済事件記者の備忘録」日刊ゲンダイDIGITAL、2023年
村串栄一「検察秘録ー誰も書けなかった事件の深層」光文社、2002年
魚住昭「特捜検察」岩波新書、1997年
熊﨑勝彦/鎌田靖「平成重大事件の深層」中公新書ラクレ、2020年

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