◆日本陸軍でただ一人の“朝鮮系”中将に

洪思翊さんは非常に温和で、人間的な魅力にあふれていたことは、当時の日本の軍人が口をそろえて言っています。陸軍士官学校に進み、参謀を養成する陸軍大学校を卒業しました。
陸大に入学すると、将来は「閣下」と呼ばれる立場になります。軍人を希望する全ての少年たちが熱烈に志望する「超エリートコース」に乗り、“朝鮮系日本人”としては唯一の中将となりました。

しかし、朝鮮人の誇りはずっと持ち続けていたそうです。「創氏改名」といって、朝鮮現地では日本名に変えさせていましたが、洪さんは変えませんでした。朝鮮名のまま、中将になっていったのです。武官として立派な態度を取っていたことから、誰もそのことについて口を出せなかった、という証言があります(洪中将の発音は韓国式で、言葉を聞けば誰でも朝鮮人だとわかったそうです)。

「公的に(神戸注:差別は)全然なかったと言いうるだろうか。必ずしもそうは言えない。というのは韓国系将校の連隊長は一人もいないからである。(中略)終戦までに大佐・中佐以上まで行った者が、二十六、二十七期合わせて十名いるのに、一人の連隊長も出ていない。国善氏によると洪中将も一度は連隊長を経験しておきたいと強く希望し、その希望を申し出たはずなのに、ついに連隊長は経験しなかった。理由は明らかでない。が、天皇の象徴である軍旗を韓国系将校にわたすことに、何らかの抵抗感があったのではないかと私は推定している」(上巻52ページ)

長男(洪国善氏)が「差別を受けることに納得がいかない。なぜ自分たちはこういう扱いを受けるのか」と言った時に、洪中将はこう語ったと言います。

「アイルランド人はイギリスで、どのような扱いをうけても、決してアイルランド人であることを隠さない。そして名乗るときは必ずはっきりと「私はアイルランド人のだれだれです」と言う。おまえもこの通りにして、どんなときでも必ず『私は朝鮮人の洪国善です』とはっきり言い、決してこの『朝鮮人の』を略してはいけない」(上巻24ページ)

日本陸軍士官学校の同期生に、池大亨(チ・デヒョン)という人がいました。脱走して、中国で日本軍と戦うレジスタンス部隊を組織して、独立運動を戦いました。洪さんはこっそりと、この親友の家族の困窮を救うためにカンパを送っていました。
魂としての朝鮮人の誇りを持ちつつも、現実社会で自分が選んだ「日本陸軍の最高幹部」という立場で暮らしていたわけです。日本で暮らす朝鮮人の人たち、軍で働く人たちのことを考えながら、リーダーとしての自分が何かを背負うべきだと考えていたのではなかろうか、と周囲は言っています。

◆「自らの決断」への忠誠

1944年には、東南アジア全体を管轄する「南方総軍」の兵站(へいたん)監、つまり補給・輸送・管理を担当するトップに就任し、中将に任じられましたが、翌45年に敗戦、捕虜となります。そして46年9月、フィリピンで絞首刑になりました。
洪中将は、兵站部門のトップでした。陸軍病院などを管轄しているのですが、その中の一つに捕虜収容所もありました。収容所で日本軍が捕虜を虐待したり、殺害したり、いろいろなケースがあってBC級戦犯が処罰されましたが、形式上とは言え総括責任者であるということで、絞首刑になっています。何という人生なのでしょう。

戦争が終わった時に、部下の日本軍人が「これで韓国は独立する。洪中将も帰国されて、活躍されることでしょう」と祝いの言葉をかけたそうです。その時、洪中将は威儀を正してこう言っています。

「自分はまだ制服(ユニフォーム)を着ている、この制服を着ている限り、私はこの制服に忠誠でありたい。従って、これを着ている限り、そういうことは一切考えていない」(上巻95ページ)

戦犯を裁く法廷で洪中将は一切弁明せず、無言を貫いています。

絞首刑となる日、キリスト教の教誨師だった片山牧師に、「片山君、何も心配するな。私は悪いことは何もしなかった。死んだら真っ直ぐ神さまのところへ行くよ。僕には自信がある。だから何も心配するな」と言って、絞首台に上りました。

戦争後の世界では、洪さんは「裏切り者」とされています。親友だった池大亨さんは、「建国の英雄」として、大臣になりました。こっそりと日本から支援をしていた洪思翊中将は、絞首刑を受けて人生を終わりました。
次の世代は、「裏切り者」と断罪してしまうかもしれないけど、その前に生きた人々の深い思いがある。もう少し想像力を働かせないといけないのではないか。歴史を見る時に大事なのはそういうことかな、といつも思うのです。


◎神戸金史(かんべ・かねぶみ)
1967年生まれ。毎日新聞に入社直後、雲仙噴火災害に遭遇。福岡、東京の社会部で勤務した後、2005年にRKBに転職。東京報道部時代に「やまゆり園」障害者殺傷事件を取材してラジオドキュメンタリー『SCRATCH 差別と平成』やテレビ『イントレランスの時代』を制作した。