◆特攻隊員となって死んだ朝鮮人
戦後になって、「戦争前」をどう考えるかが大きな問題になっていきます。日本に併合された当時の朝鮮の人たちは、日本の軍隊に徴用されたり、志願したりしました。軍人・軍属などを合わせると、26万人以上いたと言われています。中には、特攻隊で死んだ人もいます。
朝鮮人なのに、なぜ特攻隊で死ぬのか――。書き残された記録を見てみると、兄から「特攻に行くな」と説得された弟は、「自分は、朝鮮を代表している。逃げたりしたら、祖国が嘲われる。多くの同胞が、一層、屈辱に耐えねばならなくなる」(金尚弼、日本名「結城尚弼=しょうひつ」中尉)。
またある人は「朝鮮人の、肝っ玉をみせてやる」と言って特攻隊に行って突っ込んでいったという記録が残っています(朴東薫、日本名「大河正明」)。
こういった方々は戦後、「裏切り者扱い」されていきました。その時代に生き、一生懸命に選択をした人たちを、次の時代が簡単に断罪してしまう。これが「歴史の残酷さ」だと思っています。
その時はわからなくても、後から分かってくるということもあります。私たちも、後世からどんなふうに言われるのか、予想することは非常に難しいでしょう。だから、「よかった」「悪かった」という話ではなくて、そういう状況の中で生きた人々がいた、ということに思いを馳せてみたいと思います。
◆日本陸軍に“取り残された”朝鮮留学生

あえて“朝鮮系日本人”と言いましょう。彼らに日本の陸軍士官学校が門戸を開いたのは、日韓併合から18年後でした(李王家や特別な王族を除く)。つまり、「生まれた時から法的に日本国民だった人たち」です。
その世代に、評論家の山本七平さん(1921年~1991年)が、インタビューしています。「日本人を見返してやろう」という意識がすごく強かったと言います。
ところで、その人たちの前の世代――。朝鮮がまだ独立を保っていた時代に、日本陸軍は朝鮮の陸軍武官学校から留学生を迎えていました。その中に、洪思翊(日本語読みは「こう・しよく」)という方がいます。
1889年に朝鮮に生まれていて、日清戦争(1894年)を経て、日露戦争(1904年)では満15歳。18歳で大韓帝国の陸軍武官学校に入学しました。朝鮮人として育ち、20歳で日本陸軍中央幼年学校への留学を命じられました。
「当時の日本は、一貫して韓国を独立国であると主張し、日清戦争の後は韓国を軍事的に強化して自己の同盟国にするつもりがあったらしく、1896年(明治29、11期) から急に留学生を受け入れ、1909年(明治42)までに合計63名が来日しているが、その翌年には日韓併合を強行してこれを打ち切っている」(山本七平著『洪思翊中将の処刑』上巻76ページ、ちくま文庫、絶版)
ところが、翌1910年に韓国が併合され、朝鮮人は“朝鮮系日本人”となるわけです。当然ですが、留学制度は消滅。その後18年間は、朝鮮人が陸軍士官学校に入ることはなくなりました。独立国としての最後の世代、日本陸軍の中に朝鮮系の兵隊が取り残された形です。
















