終戦とならなかった台湾

日下部正樹キャスター:
「台湾の街を歩いていますと、このような廟をよく目にするんですけど、この廟に祀られているのは日本人、台湾で戦死した兵士がここに神様として祀られています。」

この地で戦死した無名の青年パイロットが祀られ、地元の人たちの信仰を集めていることにちょっと驚かされました。

ーー煙草を付けるんですか?
地元住民「彼は煙草を吸うので」

50年にわたり日本の植民地でありながら台湾には親日家が多いと言われます。それは台湾の戦後が新たな恐怖の始まりだったからです。

日本にかわって台湾を治めたのは中国国民党。台湾の人たちにとって昨日までの敵がやってきたのです。日本の高等教育を受けたエリート層への弾圧が始まりました。

日本語の使用は禁じられ、言われなき罪で多くの人たちが逮捕・投獄されました。
拷問や処刑により殺害された人たちは数万人におよぶとも言われます。台湾の人々は陰でこうささやき合いました。

「犬(日本)が去って、豚(中国)が来た」

呉さんの古里、台湾・斗六市。幼かった呉さんが暮らした頃の町並みが残っています。姪にあたる淑芬さんが呉さんの生家を案内してくれました。

呉淑芬さん「ここが呉さんの家族が住んでいた所です」

戦後、呉さん一家も弾圧を恐れバラバラに暮らさざるを得ませんでした。

淑芬さん
「呉さんの父親は(日本統治時代の)政府の役人なのでとても危なかったんです。あれは時代の悲劇です。誰も逃げられず、大勢の人が亡くなりました。斗六の台湾のエリートも皆連れていかれて、銃殺されました」

今回の台湾取材でどうしても会いたい台湾出身の日本兵がいました。

4年ぶりに再会した趙中秋さん。96才。
補給のないジャングルで、ほとんどの兵士が飢えと病に倒れた「インパール作戦」の生き残りです。

ーー前にお会いした時、趙さんは自分は日本人だと言っていました。
趙中秋さん「いまでも言うてます。」
ーー今でも?
趙さん「今でも私は日本人です。やっぱり死ぬまで日本人なんだ」

台湾政府にとっては元敵国の兵士、日本政府にとっては既に外国人。戦後はどちらにも頼ることが出来ませんでした。脳梗塞で思うように言葉が出ません。絞り出すように「私は日本人」と繰り返します。

趙さんはどうしても、と言って近所のベトナム料理店に誘ってくれました。そこで牛肉麵を平らげる姿に地獄を見てきた兵士の生への執念を感じました。

別れ際に尋ねました。

ーー趙さんにとって、戦争はもう終わりましたか?
趙さん「わからない。私にとってはそのまま残されている」
ーー何が残されているんですか?
趙さん「私の戦争。昔のまま残されている。皆さんにも残されていると思う」