日本人として戦ったのに…戦後の補償問題

復員後は日本人ではなくなり、外国人扱いとなった呉正男さん。5年遅れで日本の高校に通い、パチンコ店で働きながら、法政大学に入学した。卒業後、40年近く務めたのが横浜中華街にある銀行だ。

呉正男さん
「僕の自慢はね、僕の専務から理事長時代まではね、一件も貸し倒れ起きていない。自慢している」

台湾籍を貫いてきたが1度だけ、日本国籍を取得しようと役所を訪れたことがあるという。

呉さん
「奥の部屋に入って座って、僕の経歴ね。中学入隊、戦隊、ソ連抑留 、復員、銀行の理事長もやったし、それで喋って、立ち上がろうとしたら 、『申請しても出ないことありますよ』って言われたから、 『ん?この野郎』と思ってね。ムカってしたんだ俺。(これだけの経歴を持ってるのに) あなたならすぐ出ますって思ったんだよ、普通ね。元兵隊さんだよあんた、元日本兵でしょ」

日本人として教育され、日本のために命をささげた自身の過去が否定されたように感じた。戦後の補償問題にも釈然としない思いを抱えている。

1974年、インドネシアのジャングルで台湾出身の日本兵が発見されたことがあった。終戦を知らずに30年も彷徨い続けていたのだ。衣服はぼろぼろで裸同然だったが、この三八式銃は最後まで手にしていたという。

日本政府は未払い給与などの名目で6万円ほどを渡し、そのまま台湾へ帰らせた。その処遇は他の日本人の元兵士とは雲泥の差だった。

これをきっかけに、台湾の元日本兵らが軍人恩給などの補償を求める訴えを起こしたが、認められなかった。台湾籍の呉さんも補償を受けていない。

呉さん「僕たちは何もないわけだ。死んでも」
ーーおおもとはやっぱり日本政府の対応なんじゃないですか?
呉さん「最初のうちはね。最初のうちは『お金がありません』ね、戦後だからね。2番目は『そんな法律はありません』だね。3番目は『そんなことがあったんですか』だね。本当に冷たいのはもうそのお金の問題よりも、3万人も死んで誰も碑を立ててないのおかしいよね」

2022年8月、東京・千鳥ヶ淵の戦没者墓苑。
毎年8月23日にはシベリア抑留犠牲者の追悼集会が開かれます。8月23日はソ連の指導者・スターリンが抑留命令を出した日とされます。

猛暑にもかかわらず呉さんは毎年参列しています。抑留先だったカザフスタンの大使の姿もありました。

在日カザフスタン大使「いつも覚えております皆さんのこと。おいくつですか?」
呉さん「95」

呉さんが体験してきた過酷な戦争。しかし「自分は幸運だった」と繰り返します。

呉さん
「…とにかく、全てマイナス。いろいろなマイナスがあって今日までこうやって生きているんだから、一番幸せだと思う」

自らの体験を決して辛かったとは言わない呉さん。私にはそれが亡くなった多くの同胞に対する気遣いに感じられてなりません。

そんな呉さんが日本人、そして日本社会に訴え続けてきたことはただひとつ。

“日本のために命を落とした台湾出身日本兵の慰霊碑を誰もが足を運べる場所に建てたい”

このささやかな願いが叶うのでしょうか?残された時間は余りありません。