-25℃を下回ることも…過酷な砂漠地帯に収容

しかし、呉さんの戦争体験はここで終わらなかった。南の38度線を目指す途中、ソ連兵に捕らえられ過酷な抑留生活を強いられたのだ。戦後、57万人におよぶ日本人がソ連やモンゴルの収容所に送られ、飢えや寒さの中、重労働を強いられた。5万5千人が亡くなったという。
呉さんが収容されたのは、カザフスタン南部にあるクズオルダ。寒暖差の大きい砂漠地帯で、-25℃を下回る日もあったという。
現地に関する資料がほとんど見つからない中、クズオルダの収容所にいたという元日本兵の語り書きを見つけた。

「食事の量は不十分で、食べても腹3部の状態だった。」
「冬場は深いところは砂が凍るため、つるはしをいくら強く振り下ろしても2cmくらいしか突き刺さらない。」
「ノルマを果たせないため、朝の食事量を減らされた。」
私たちは聞き取りをした家族に会うことにした。
直美さんと律子さん。この姉妹もまた、抑留されていた父親の足跡をたずねて情報を集めていた。7年前には収容所を探すためクズオルダを訪問したが、場所は特定できなかったという。

呉さんが語り書きを見る。二人の父親に心当たりはないと言うが…
呉さん「いやびっくりしちゃった。読んでると、なるほど、似てるんだよね。薪取りに行ったと。水は美味しくなかったと。腹三部も、ダム堀りね、これは一緒なんだよ」
律子さん「こんなの掘ったんじゃないですか?」
直美さん「今こんなになってるんですよ。皆さんが掘ってくださったのが」
呉さん「掘ってこれを担いであがって、上に泥を盛って。何に使うかもわからなかった。いつも俺、死んじゃったら(家族に)誰が教えるのかって、いつも心配だった。」
そしてこの言葉が自身の体験とも重なった。
呉さん「絶対生き抜いてやると。僕はマラリアに二回かかっちゃったから、もう熱が出て熱が出て、俺は駄目だと思うよりも絶対生き抜いてやるぞっていうと、全然違うからね。」
直美さん「父の場合はね、子どももいましたしね、絶対生きて帰らなきゃっていうのがあったみたいですよね。」
呉さん「責任がね。」
律子さん「でもね、父が帰ってこないと、私たち生まれてないんです」
呉さん「とにかく、お父さんも私も非常にいいのは、ソ連抑留からみれば幸せな方ですね。(極寒の)シベリアではなかったこと。2年たらずで終わったこと」
それでも当時の辛さがしのばれる、こんな映像が残っていた。40年前の報道特集のインタビューだ。抑留中、食事をもらうのに使っていたという飯ごう。その蓋を内側から叩いてのばしたという。

呉さん
「少し膨れているのは、わからんように蓋を膨らまして、少しでも食料をもらうときに、入れる人が気が付かないようなふくらまし方で、わずかひと口でもふた口でも、余計に食料をもらおうという苦心の跡が見えるわけですね。なんでまあ、軍隊になんのためらいもなく志願していったのか。死に対する悩み、戦争に対する疑問。こういうものを私全然持たないで行ったことに対して、とても戦後悩んだんですね、戻ってきてから」

ロシア側に保管されていた呉さんの個人記録には、収容所を出る頃の直筆のサインがある。「大山」は、呉さんの日本名だ。
実はこのとき、日本名を名乗っていたことがその後の生死を分ける結果になった。台湾ではなく、日本行きの船に乗せられたからだ。
呉さん
「私の人生の最大なる幸福は戦後2~3年間、台湾に帰らなかったことだから」
台湾に戻った兵士はどうなったのか――。