日本人として戦った台湾の人たち

当時日本の統治下にあった台湾。およそ21万人が日本の軍人・軍属としてアジア太平洋戦争を戦い、少なくとも3万人が亡くなった。
呉さんは愛国少年として育ち日本に留学するも、16歳で陸軍に志願。配属されたのは茨城県に新設されたグライダー部隊だった。
大型爆撃機が兵士を乗せたグライダーをけん引し、敵の基地上空で切り離す。着陸したグライダーから兵士が飛び出し、攻撃を試みる。いわば決死の特攻部隊だ。
――皇民化教育観みたいなものをずっと受けてるとき台湾の若者たちというのは、どういう意識を持つんですかね。もう、もう日本人になりきるわけですか?
呉さん「…私はもう日本人になりきったんだろうね」
――もう日本人として戦場で死んでもいいと思ったんですか?
呉さん「そう思いました。もちろん、もちろんですね」
しかし、制空権を失った日本ではもはや訓練もできず、北朝鮮東海岸に位置する宣徳飛行場に移る。終戦2か月前の1945年6月、兵士が召集され1枚の紙が配られた。

呉さん
「特攻意志調査があったの。三つの字があって丸付けると。僕が覚えてるのは“志望”、“熱望”、“熱烈望”です。志望、熱望、熱烈望ね」
――拒否はできない?
「うーん…ないね。でも戦後、中隊長に聞いたら全員が“熱烈望”をつけてたと言っていましたね」
――呉さんも?
「もちろんですね、だいたい順番が来たと、僕は単なる順番が来たなと」
呉さんは先発隊に外れ、8月5日に64人が飛び立つのを見送った。そしてそのまま、北朝鮮で終戦を迎えたのだ。

「朕は帝国政府をして米英支蘇四国に対し、その共同宣言を受諾する旨…」
呉さん
「聞いたときはね、雑音が多くて理解できないのよ。それでだんだんだんだん負けたってことがわかってきた以外にね。周りの朝鮮人達の動きが全然違う、今までとね。歌ったりし始めてるからね」














