2度の戦争が家族に何をもたらしたのか。2月11日、北海道で暮らす降籏さんを尋ねました。

「(お父さんは怖かったですか?優しかった?)怖かったです、石を投げて遊んでいたら兄のまゆげの所に当たってしまったことがあり、木に縛り付けられました」

厳格だった父と、優しかった母。
灯台守だった父・利勝さんの仕事のため、一家は太平洋戦争中、樺太に渡りました。

しかし、1945年8月にソ連が日ソ中立条約を破って侵攻。
日本人は引き揚げを余儀なくされ、父・利勝さんは船を見送るための任務に当たりました。

その3年後、最後の引き揚げ船で帰国しようとしていた矢先、兄の信捷さんが骨折し、母親のようさんも妊娠が判明。
船に乗ることができず、その後の東西冷戦によって、一家は帰国できなくなりました。

(英捷さん)「母は日本に帰りたがっていました、よく夜に長い手紙を書いていたことを覚えています、父も一度日本に一時帰国しようと考えて、一度、日本側の許可が出たことがありました、でもソ連側の許可が下りなくてビザの有効期限が切れてしまいました、モスクワまで行ったこともありますが、結局だめで、日本に行くことをあきらめたようです」

ロシア語を話せず、外出することもほとんどなかったという母・ようさん。
安曇野市にある実家には、兄に宛てた手紙が残されていました。

(ようさんの甥の妻・小川京子さん)「たくさんありますよ、4年生の娘は優しい娘で利口だけど、丈夫とは言えないそうです、よくこれだけのことみんな書いてよっぽどこっちが恋しかったんじゃないです?」

ふるさとを偲んでいた父と母。冷戦の雪解けが進んだ1991年、SBCはサハリンの一家を取材していました。
画が好きだったという利勝さん。
富士山を描いた絵などを残し、この時すでに亡くなっていました。

母・ようさんも病に臥していて、この訪問からまもなくして日本の土を踏むことなく亡くなりました。
両親と長く暮らした兄・信捷さんは、その後、サハリン帰国者が多く住む北海道に永住帰国しました。
戦争に翻弄された中で家族の絆は大きかったといいます。

「おかあさんがいつも話をしていた、助け合う人はきょうだいだけですよって、仲良くしていないとだめですよって言っていました、私の家族は仲良くしています」

2022年ウクライナを襲った軍事侵攻。きょうだいは連絡を取り合い、ウクライナにいた降籏さんの帰国が実現しました。

「人の人生がみんな戦争で変わってくると思います、私たちだって戦争がなかったら日本の国に住むようになっていたかもしれないけど、だから戦争は何もいいことないって思います」