■かつて黒人がリンクを使えたのは「週1回」だった

1978年ニューヨークのローラーディスコの様子 Bettman/Gettyより


アメリカでローラースケートが人気を集め始めた1950ー60年代は同時に、人種差別撤廃を求める「公民権運動」が最も盛んな時代だった。バスの座席が黒人と白人で分けられていたように、ローラースケートリンクもまた、肌の色で区別されていたという。ローラースケートの歴史を追ったドキュメンタリー映画「United Skates」で、シカゴでは当時、黒人がリンクを使用できたのは週に1度の夜だけで、その夜は「ソウル・ナイト」と呼ばれていたと男性が証言している。別の都市でも同様の黒人差別が存在し、さらには白人至上主義団体「KKK」がリンクで黒人を襲撃する事件も起きていたそうだ。一方で、スケートリンクで行われた黒人に対する差別や迫害への抗議デモも行われていたという。

こうした黒人差別をめぐる状況がローラースケートと黒人を強く結びつけることになり、リンクが黒人コミュニティの一部になっていった。「ソウル・ナイト」や「ヘル・ナイト」と呼ばれた、黒人が唯一スケートを楽しめる夜は貴重なものになり、各都市を代表するスケート技が生まれるなど、黒人社会の連帯を強めるものになった。

■“スケートは自由の象徴” 685マイルを駆けた男性の物語

ローラースケートで自由を訴えるレジャー・スミスさん The Washington Post/Gettyより


そして1963年は公民権運動が一番注目された年と言える。8月、キング牧師が首都ワシントンD.C.で「I have a dream(私には夢がある)」という歴史に残る演説を行った年だ。

この演説会場にローラースケートで現れた男性がいた。レジャー・スミスさん、当時27歳。シカゴからワシントンまで10日かけてローラースケートで会場に駆けつけたという。スミスさんは、道中「Freedom」と書かれたタスキをかけて黒人差別の撲滅を訴えた。その道のりは685マイル、約1100キロ。スミスさんは、1日に10時間、滑り続けたという。当時のラジオインタビューで、スミスさんは道中、自分をはねようとした車もあったと証言している。

685マイルを駆け抜けたスミスさんのエピソードは、ローラースケートが差別や迫害に立ち向かおうという当時の黒人社会の象徴的存在だったことを雄弁に物語っていると言えるだろう。

■「ブラック・ライブズ・マター」とローラースケート

華麗なダンスを披露していた黒人のカップル


ロックフェラーセンターのスケートリンクで取材中、黒人のカップルが華麗なダンスを披露していた。昔を懐かしむように軽快なステップを踏み、カメラの前で見事なポーズを決めてくれた。

コロナ禍のアメリカは「ブラック・ライブズ・マター運動」が大きく盛り上がった時期でもある。抗議デモにローラースケートで参加する人がいたり、ローラースケートを通して黒人の歴史を伝えたりする取り組みも行われてきた。

コロナ禍のアメリカで再び注目されるようになったローラースケート。黒人文化との関わりを重ねて知ると、実はこの2年間、ローラースケートは新型コロナからの“復活”のシンボルとしてだけでなく、アメリカ社会が抱える根深い差別という問題も改めて気づかせてくれるきっかけになったのではないか。少し大げさかもしれないが、リンクで思い思いに楽しむ人を見ながら、そんなことを感じた。