雲仙・普賢岳の大火砕流から35年が経過し、山の監視体制は遠隔化されるなど火山の観測や研究をめぐる環境は大きく様変わりしています。
そうした中、30年以上にわたり島原市で普賢岳の監視・研究を続ける1人の火山学者がいます。普賢岳の「ホームドクター」が考えるこれからの防災のあり方とは?

43人が犠牲となった未曽有の災害

1991年6月3日午後4時8分。
灰色に渦巻く激しい火砕流がすぐ目の前まで迫り、周囲を覆い尽くしていく緊迫した当時の映像が残されています。

記者(当時)の声:
「いま手前に我々のいるところまで猛烈に火砕流が迫ってきています。これは危ない、逃げよう、逃げよう」

雨の中、赤色灯を回した市役所の白い車両が、拡声器で避難を呼びかけながら走り去っていきます。

「ただちに避難をしてください、こちらは島原市役所です」

あちこちから白い煙が立ち上り、ふもとの田畑や木々が火災によって赤く燃え上がる──。この未曽有の火山災害で、43人が犠牲となりました。

噴火直後から陸上自衛隊のヘリコプターに乗り込み、現場へ何度も足を運んで山の変化を見守り続けた火山学者がいました。

のちに「普賢岳のホームドクター」と呼ばれた、九州大学名誉教授の故・太田一也さんです。

記者:「すみません、今日の火口の様子はいかがでしたか?」

故・太田一也さん(九州大学名誉教授):「相変わらず成長を続けているようですね。せりあがってきてますから」