富野監督 宇宙との接点は幼少期
九州は、全国の中で、人口や名目域内総生産(GDP)、小売業の年間販売額など、様々な指標が全国の1割ほどで「1割経済」とも呼ばれる。その中で、どうやって社会や世界に貢献し、九州が成長できるかがキーワードになっている。
鹿児島県にロケット射場、大分空港が宇宙港に選定されているほか、各地に研究拠点や民間事業者もあり、先進的な地域だ。対談は宇宙をキーワードに始まった。
山本:きょうはテーマ1「アイデアを現実にする力」、テーマ2「革新とニュータイプ」というところを対談いただきます。これ以外は何も決まっていません。一体どんなお話が飛び出すのか私もドキドキして壇上におります。
ではまず富野監督から、幼少期からあったという宇宙との接点について教えてください。
会場のモニターには、宇宙服のようなものを着た人物のモノクロ写真、そしてロケットの絵2枚が映し出された。絵は富野監督が子どものころに描いたものだ。
富野:このとても恥ずかしい絵は、僕が中学1年か小学校6年の時に、少年雑誌のグラビアにあった絵を真似しただけのものです。僕自身の描ける絵っていうのはこんなもので、現在まで向上していません。そういう者でアニメの仕事をやっています。
この真ん中にある絵はフォン・ブラウンというロケット開発者が、月まで行く計画を考えた時の宇宙船で、ムーンシップと言われているものでした。
右側の絵は3段式ロケットです。この3段式のアイデアを小学校5年の時に初めて知ってびっくり仰天したんです。1段目、2段目、3段目と切り離して、一番上のロケットだけが月に行く。倍々で速度が上がっていくアイデアをすごいなと思ったんです。
一番左には宇宙服みたいな写真があります。これはゼロ戦パイロットが高度1万メートルでも苦しくないようにするための与圧服です。戦時中、父の勤務先に発注があって作られた試作品で、僕は生まれた時からこの写真を見ていました。
それで中学3年の時に、アメリカが作ったSF映画「月世界征服」というのを見ました。カラー映像でリアルな月面を作って、3色の宇宙服を見た時に、戦争でアメリカに負けて、宇宙服競争でもやっぱりアメリカに負けたんだって感じた。そんな記憶を持っています。
そんなことで、宇宙服や宇宙旅行とか宇宙に対する関心を持つようになりました。














