しばらくは充実した生活でしたが、昭和19年に召集されると、翌年には敗戦。
シベリア抑留による過酷な収容所生活を余儀なくされました。

一方、4人の子ども連れて隠岐の島町の実家にたどり着た妻のモジミさん、地元の小学校の教員に復帰しましたが、やがて子どもたちの進学問題に直面します。

元西ノ島町長 岡田昌平さん
「モジミさんは二重生活にするとお金がとても足らないので、猛烈な運動を展開して県議会議員とか、県庁とか教育委員会とかに働きかけて(教員の)転勤させていただきます。」

長男の顕一さんの進学にあわせて、隠岐から松江へ、そして首都圏へと転居を繰り返しました。

岡田昌平さん
「貴方が想像できないような借金を重ねております。早く帰ってきて一緒に働いて返しましょう。経済的に非常に苦労しながら子ども達の教育をしております。」