長期化した「ゼネコン汚職裁判」の結末

初公判で、猪狩は法廷に立ち、次のように主張した。

「検察が過剰な正義観念を振りかざし、目的のためには手段を選ばない捜査で作り上げた虚構の事実に過ぎない」

さらに「捜査段階の竹内の自白は、任意性を欠く」と述べ、大鶴検事による取り調べの「任意性」を正面から争う姿勢を示したのである。猪狩には、「刺された針を一本ずつ抜き取るように、徹底審理を求めて勝機をつかむしかない」という腹づもりがあった。

検察との全面対決を選択したことで、竹内は捜査段階とは一転して否認に転じた。しかし、保釈は認められず、東京拘置所での勾留は1年3か月に及んだ。以後の公判は、例を見ない長期戦へと雪崩れ込んでいく。

贈賄側の清水建設吉野照造会長も、捜査段階では井内顕策(30期)の取り調べに対して、竹内前知事に1,000万円のワイロを渡したことを認めていた。ところが、公判に入ると一転して否認に転じる。

吉野を取り調べた井内はこう振り返る。

「清水建設の吉野が供述を変転させた背景には、竹内知事の供述が『ワイロを供与された際に、吉野会長が知事のところに1人で来たのか、複数で来たのか』などについて記憶が不安定だったからだ。検事調書の信用性が最大の争点となり、吉野を取り調べを行ったわたしも法廷で尋問され、大変苦労した」

ある日、猪狩は筆者にこう漏らした。

「なかなか竹内さんの保釈が許可されず落ち込んでいたとき、接見で竹内さんから『先生、私は大丈夫です。そんなにがっかりしないで』と逆に励まされた。あの思いやりと気骨には胸を打たれたよ」

猪狩ら弁護団は、検察が提出した「捜査段階」の供述調書の大半について、証拠採用に不同意を申し立てた。不同意となれば調書は原則として証拠とならないため、検察側は竹内知事を「証人尋問」する必要に迫られた。

当然、法廷供述と「捜査段階」の調書に矛盾が生じれば、今後は検察側が「調書の方が信用できる」と主張し、再び調書の証拠採用を求める。こうした応酬は、双方に大きな負担を強いる消耗戦となり、審理は果てしなく長期化していった。

猪狩は後年、こう振り返っている。

「熾烈な駆け引きだった。若くなければ到底耐えられなかった」

前述の「新井将敬事件」が終結した1998年になっても、竹内裁判はなお続いていた。
1999年、竹内に前立腺がんが見つかり、手術後、体力は急速に衰えていく。2003年には認知症と診断され、翌2004年9月、一審判決を迎えることなく、87歳で死去。公訴は棄却された。

結局、竹内知事が問われていた総額9,500万円の収賄については、贈賄側の有罪が確定したことにより、事実として認定された。また、任意性が争われた自白調書についても、「本人の自由意思に基づく供述である」とする検察側の主張が採用されたのである。

猪狩が竹内知事とともに検察と対峙した、11年に及ぶ法廷闘争は、こうして幕を閉じた。

猪狩が11年間にわたって弁護人を務めた茨城県知事・竹内藤男(1993年)
茨城県知事への「1,000万円」の贈賄罪で起訴された清水建設・吉野会長(1993年)