部下の写真を戦後も大切にしていた曽祖父

曽祖父のアルバムには、自らの名前を大きく書いた帽子を手に、若者たちが並んで撮った集合写真が何枚も残されています。日本海軍を研究する沖田恭祐さんに見てもらうと、これらの写真に大きな意味があることが分かりました。

曽祖父がアルバムに残していた三隈の乗組員

日本海軍を研究する沖田恭祐さん
「これは幹部が部下の顔を覚えないといけないので撮るんです。帽子の表のところに名前をチョークで書いて写真を撮って幹部に配って、部下の名前を覚えなさいと」

しかし戦況は悪化。部下たちには悲劇的な運命が待っていました。巡洋艦「三隈」はミッドウェー海戦で沈没。金剛も陸奥も、曽祖父が砲術長を務めた艦は、曽祖父が艦を降りた後、次々と沈んでいきました。そのたびに命を落としていく部下たちの写真を、曽祖父は、戦後も大切に保管していたのです。

「武蔵が沈んだ、あの兵隊たちが…」

1944年10月、フィリピンのレイテ沖海戦。曽祖父が初代砲術長を務め、世界最強・不沈艦と謳われた武蔵も、アメリカ軍の攻撃を受けて沈みました。1023人が死亡。曽祖父が育て、武蔵の乗組員に自ら抜擢した若者が大勢いました。
その頃、家族とともに江田島で暮らし、母校である海軍兵学校で、今度は教官を務めていた曽祖父。武蔵沈没の一報を聞いて帰宅したときのことを、次男の爲親さんは忘れられません。

曽祖父の次男・永橋爲親さん(95)
「帰ってきたらそのまま真っ直ぐ自分の部屋に入っちゃったんですよ。黙って外から聞いてると、すすり泣くような声が聞こえて。戸を開けたらもう涙だけじゃなくてね、本当に、親父の今まで見たことないような姿。僕も手を持ち合って泣きました。今でも涙が出る心地ですよね」

「武蔵が沈んだ、あの兵隊たちが…」。後に続く言葉は、聞こえなかったといいます。

戦艦武蔵の乗組員