ピラミッドで撮った写真も…世界を巡り見聞を広げた若い頃
曽祖父の原点は広島県の江田島。海上自衛隊の幹部候補生学校がありますが、そこは当時、海軍の士官を養成する兵学校でした。曽祖父は太平洋戦争が始まる23年前に19歳で入学します。全国からエリートが集まった海軍兵学校は、当時の青少年の憧れでした。
その頃の曽祖父のアルバムが残っています。兵学校と聞くと厳しい軍事訓練を想像しますが、アルバムには、はじけるような笑顔の写真や、机につっぷして寝る仲間の写真など、等身大の若者たちの姿があふれていました。卒業直後の練習航海でエジプトを訪れ、ピラミッドの前でラクダに乗って撮った写真もありました。
曽祖父が通った大正時代は少数精鋭の教育が行われていました。船乗りは「小さな外交官」という位置付けでもあり、国際感覚が重視されました。このころの曽祖父は、未来への希望に胸を膨らませていたのではないでしょうか。
艦長に次ぐような責任と権限”砲術長”を歴任して教官に
軍歴票によると、曽祖父は兵学校を卒業後、巡洋艦「三隈」や戦艦「陸奥」の砲術長を歴任します。海上自衛隊第1術科学校で砲術科の教官を務める尾瀬3佐は「砲術長は花形のポジションだった」と言います。
「大砲の配置についている人間が、船の中で一番多かったはずで、恐らく船の乗員の約半数程度は大砲の配置についていたのではないかと思います。彼らを束ねる砲術長は、艦長に次ぐような責任と権限を持っていたと思います」
様々な軍艦で、大勢の部下を指揮してきた曽祖父。1941年12月には、太平洋戦争が始まります。開戦後、曽祖父は、神奈川県の逗子にあった海軍砲術学校で教官を務めるなど、若い兵たちの育成が主な任務となっていました。ただ、戦艦武蔵では初代砲術長を務め、自ら砲術員を選定しました。
曽祖父の次男・永橋爲親さん・95歳は、部下と向き合う曽祖父の姿を覚えていました。
曽祖父の次男・永橋爲親(95)
「親父は、必ず新しい兵隊が入ると、グループをうちに呼んで来るんです。自分が『撃て』と言った途端に引き金を引けるような兵隊に育てないといけない。そのためには以心伝心ということですよね。同時に海軍士官としてではなく、人間として、部下を大切にしただろうと思うんです」

















