「死なせてしまった」語らなかった戦後の胸中
そして日本は敗戦。曽祖父の一家は江田島の兵学校の敷地内にある官舎で暮らしていましたが、借り家に引っ越し、呉の闇市で鍬や鎌を手に入れて畑で芋などを作って食いつないだそうです。一番年下の三女はまだ4歳。中学生や小学生の子どもたちは畑仕事に駆り出されました。軍人やその家族に反感を持つ人も多く「ここから出ていけ」「お前たちに売るものは何もない」という言葉を近所の人から浴びせられたことも。また進駐軍が「女の子はいるか」と家に踏み込んでくることもあったといいます。
そんな中で曽祖父は家族を残し、一人、大崎上島に渡ってひっそりと暮らし始めたのです。当時のことを「思い出したくなかった」という二女・和子さんですが、いま、曽祖父の気持ちをこう想像しています。
次女・和子さん
「『あの部下たちを死なせてしまった』という思いはずっとあったみたい。自分だけ助かったというわけでもないでしょうが、死なせてしまったというのはあるでしょうね」
「自分だけが幸せにはなれない」。そんな思いがあったのでしょうか。実は曽祖父は、新設される海上保安大学校の校長にならないかという誘いを断ったそうです。
そのときのことを、私の祖父で曽祖父の四男・爲成から聞いていた人がいます。江田島で爲成と同じ小学校に通っていた中村博政さん(88)です。
祖父の幼なじみ・中村博政さん(88)
「誘われたんやけど、もう行かんって言うてたって。戦争に行って、愚かさを嫌というほど知ったんじゃないの。始める時から終戦までね、戦争を止められなくて優秀な若いものを殺したと。自分たちが戦争をしなければ、そういうことはなかったのにと。そういう後悔はあったと思う」
戦前、江田島で学び、仲間とともに世界を巡って見聞を広めた曾祖父。そんな自分が、未来ある若者たちを死なせた・・・。曽祖父は晩年、家族の元に戻り、10代だった私の祖父に、こう言って聞かせたそうです。
「何年かかっても、本当にやりたいことをやりなさい」

※この記事は、JNN/TBS と Yahoo!ニュースによる戦後 80 年プロジェクト「きおくをつなごう」の共同連携企画です。企画趣旨に賛同いただける方は、身近な人から聞いた戦争に関わる話や写真を「#きおくをつなごう」をつけて SNS に投稿をお願いいたします。

















