スガモプリズン最後の処刑で命を奪われた藤中松雄。死刑執行は1950年4月7日午前0時半と通告されていた。松雄が幼い二人の息子に宛てた遺書には、「戦争絶対反対」を「子にも孫にも叫んで頂く」と記してあった。その遺書を書き終えたのは、4月6日午後7時30分頃。28歳の松雄に残された時間はわずか5時間だった。そして松雄はさらに遺書を書き続けるー。

あと5時間 もし書き終わらなかったならば

スガモプリズンで命を絶たれた藤中松雄

終戦の4か月前、沖縄県石垣島に墜落した米軍機の搭乗員を上官の命令に従って銃剣で刺し、BC級戦犯に問われた藤中松雄。杭に縛られた米兵を大勢が順番に刺したが、最初に刺した松雄と次に刺した成迫忠邦、二人の下士官が最後まで減刑されることなく、死刑が執行されることになった。松雄にとって生涯最後の朝、朝食後から婿入り先の両親、妻ミツコ、二人の幼い息子へと便箋に鉛筆で12枚の遺書をしたためた松雄は、さらに生家の両親に宛てて書き始めた。(本文中、松雄は「松夫」と表記)松雄が「先生」と呼んでいる教誨師の田嶋隆純氏が何度も部屋を訪ねて、執行まで寄り添っている。

<藤中松雄の遺書 父母上様 1950年4月6日>
遺書 父母上様 断筆御免下さい
先生がお出になるまでに、兄弟妹、親戚、西ノ郷の先生等へも書こうとあせって走らせて居りますが、筆不精な私にはなかなか思う様に書けず、残念に思っております。その故、もし書き終わらなかったならば、父母様からよろしくお願い致します。