◆事件の現場を仕切っていた中尉

国立国会図書館が所蔵するマイクロフィルムの検証を続ける。スガモプリズンに関する資料から、28歳で処刑された藤中松雄の上官、榎本宗応中尉に関する文書が41枚出てきた。
1945年4月15日に起きた石垣島事件では、撃墜された米軍機に搭乗していた米兵3人がパラシュートで落下したところを捕らえられ、石垣島警備隊の本部に連れてこられた。3人は尋問を受けたあと、夜には荒地に連行されて、二人は斬首、一人は杭に縛られて大勢から銃剣で刺された。この銃剣刺突の現場を仕切っていたのが、宮崎県出身の榎本宗応中尉だった。自身も模範を示すべく米兵を突いている。そして榎本中尉の命令でいちばん最初に米兵を突いたのが藤中松雄一等兵曹だった。
◆41歳 残してきたのは妻と3人の子、老いた母

宮崎県児湯郡に住んでいた榎本宗応がスガモプリズンに入所したのは、1947年7月3日。藤中松雄が入所した次の日だった。入所時に作成され、写真と指紋が入った基礎的な個人データに記された榎本の身長は5フィート2と2分の一インチ(約159センチ)、体重は118ポンド(約54キロ)。1905年11月生まれなので満年齢で41歳だが、日本式に数え年で43歳と答えている。職業は農業だ。所持品リストは、シャツ2枚にズボン、靴下に靴のみ、所持金もない。やはり身一つで連れてこられた。
家族の欄には、妻と3人の子、ほかにも母がいる。上坂冬子著「残された妻 横浜裁判BC級戦犯秘録」(1983年 中央公論社)によると、榎本は婿養子で、亡くなった時には妻と八十歳を超えた妻の母、一女二男の幼い三児が残されたという。入所した7月から12月までの面会記録を見ると、妻の「SHIZUKO」が11月24日13時45分に訪れていた。上坂の著書によると、妻シズコが巣鴨に面会に行ったのは一度きりだという。入所から約5か月後に金網越しに会ったのが、夫婦が顔をあわせた最後ということになる。榎本は入所から死刑執行まで2年と9か月をスガモプリズンで過ごした。