■「戦線放棄したくない」ホテルをこっそり抜け出して取材を続けた
ーーその後、原発30キロ圏内は立ち入り禁止になりましたが、取材はどうしたんですか?
目の前には津波の被害が広がっていて、今ここにいる人間しかそれを取材できないわけです。それなのに沿岸部から離れて内陸に行くっていうのは、違うんじゃないかなと思っていました。どんな理由であれ、「戦線放棄して逃げるわけにはいかない」と思っていたので。東京の本社には「いつまでここに留め置かれるんですか?」「津波の被害を取材することがなんで出来ないんですか?やんなきゃダメでしょ」と言っていました。でも、命令だから従わなきゃいけない。

震災前の勤務先だった南相馬の通信部は原発の30キロ圏内にあったのでもう戻れず、福島市内のホテルを拠点に取材することになりました。2人1組で車に乗って、絶対にラジオを持ってマスクをして、13日から沿岸部も普通に取材ができるようになりました。ただし、原発30キロ圏内は入れない。
新聞だから電話で聞いたものをそのまま書けるので、そこまで苦労しなかったんですけど、やっぱり30キロ圏内の人からすると「なんでお前、現場に来ないんだ」って。仲のいい取材先の方から「来いよ」と。「なんで逃げてる?」って。「いや、逃げているつもりはないんですけど」って言って、会社に黙って、夜ホテルを抜け出してその人の会いに行ったりしました。やっぱり「信頼」が僕らの仕事の根幹ですし、会いに行かなくてはと思ったので行きましたね。
■おばあちゃんの自殺、妻を亡くした男性 「守るべきもの」がある今だから分かること
ーー特に印象に残っている取材があれば教えてください。
原発事故で言えば、93歳のおばあちゃんが自殺をしたという取材を先輩記者とさせてもらったんですが、そのおばあちゃんが遺書を残したんです。遺書には「お墓に避難します」っていう言葉を書いて。それは一度避難を経験して、避難先での生活に慣れないから自宅に戻って、でも家族はみんな避難しているから1人ぼっちで暮らしていて、それに耐えきれずにそういう遺書を残して自殺をした。ご自宅にも行って、おばあちゃんが使っていた手押車とかも見せてもらいましたけど、すごい衝撃でした。
「よく伝えてくれた」という反響もあるし、「何で自殺なんか記事にしたんだ」という批判もありましたが、伝えなきゃいけないなと思っているので、それはすごく印象に残っています。
原発事故によって自分が生まれ育った場所がなくなってしまうわけですよね。線量が高いところだと戻れないし。その悲しみをおばあちゃんは自分で“死”を選ぶことによって解消しようとしたわけです。それって93歳のおばあちゃんにさせることだったのかな、と。それだけのことだったんだろうなと。原発事故っていうのは。
記事にできなかった話もあって、常磐線が通っている線路があるんですけど、地震が起きると遮断機が下りちゃって開かなくなってしまうので、沿岸部から逃げられないんですよ。ある旦那さんと奥様が、遮断機で止められた所で車から降りて、津波が来るからと歩いて逃げる時に津波にのまれてしまったんです。2人で手を握っていたんですけど、旦那さんが奥様の手を離してしまって、奥様だけが亡くなりました。
その旦那さんに何回か会いに行ったんですけど、口を開いてくれないんですよね。当時まだ僕は結婚をしていなくて独り身だったので、好き勝手に動けたんですよね。守るものがなかったので。でも、当時母親とか親父と話をする機会があって「あなたはまだ独り身だけど、家族がいる人たちからすると、家族を亡くした悲しみというのは、あなたはまだ分からないかもしれないけれど、それがあなたの仕事なんじゃないか」と言われて、「そうだな」と思って。
でもその時は多分、本当に100%その気持ちは分からなかったと思うんですよね。今でこそ、結婚して子どもが生まれて守るべきものができてくると、その人たちの悲しみっていうか、辛さはやっぱり分かりますよね。

■震災の経験を受け止めきれず逃げていた自分 これから、ようやく
ーー震災の経験がどう自分に影響していると思いますか?
僕、まだ10年経ってもこの震災と向き合えていないんですよ。消化できていないというか、向き合えてなくて。10年経ったから、今自分がやっとこう向き合えるようになったのかなと、10年の節目が考えるきっかけを与えてくれたのかなと思っています。これまでちょっと連絡が途絶えた人にも連絡を取ったりして、自分の中で決着をつけたいなと思っています。
震災の年の10月に放射線量の関係で1回東京に異動になったんですよ。どうしても現場を離れたくなかったので拒否していたんですけど、会社の命令なので異動しなきゃいけない。取材先から「おまえ逃げるのか」って言われて。それはやっぱり僕からすると忸怩たる思いでした。
1年経ってからまた福島支局に配属させてもらって、そこからまた取材をしました。でも、やっぱり時間が経てば経つほど、自分の役割も変わってくるので福島から遠のいていく。
震災の経験を受け止めきれてなくて逃げた自分がいて、その自分と向き合うためのきっかけ、この"10年の節目”を与えてくれて、これからなんだな、これから震災と向き合うための時間が始まるのかなと。そのための取材をしたいなと思います。

1985年10月生まれ、東京都出身。毎日新聞の記者として、福島支局や科学環境部で東日本大震災を取材後、社会部で警視庁や調査報道を担当。2018年TBSテレビ入社後は東京地検を担当。日産のカルロス・ゴーン被告逮捕、カジノ汚職事件、参院選買収事件などの特捜事件取材などを経て、現在は「調査報道ユニット」所属。近年の主な仕事は、2019年、東京福祉大の留学生が多数所在不明となった「消えた留学生」問題報道。2020年、座間9人殺害事件の白石隆浩被告に定期的に面会しての報道。2021年、大手旅行会社HIS子会社による「Go Toトラベルキャンペーン」不正受給問題の報道。聖マリアンナ医大病院新型コロナ重症者病棟の継続取材。2022年3月開催のTBSドキュメンタリー映画祭では、地下鉄サリン事件の被害者を追った「さっちゃん最後のメッセージ 地下鉄サリン事件被害者家族の25年」を監督作品として出品。