震災当時、新聞社で福島県の南相馬市を拠点に取材をしていた神保圭作記者。津波に襲われた街や原発事故の最前線にいながら、あちこちに遺体がある惨状にいたたまれずシャッターを切れなかったことや、「原発圏内30キロ圏内立ち入り禁止」というルールに阻まれて思うように取材ができなかったことなど、数々の葛藤がありました。
10年の節目で、逃げていた自分と向き合い始める決意をした神保記者が、当時は話せなかったことや、ずっと思い出さないようにしていたことも含めて、話してくれました。
■ふとした瞬間に蘇る“あの時”の光景
ーー震災当時のことは今でも思い出しますか?
思い出しますね。家で洗い物をしてる時とか、車に乗っている時とか。なぜ、そういう時に当時のイメージが出てくるのかわからないんですけど。思い出す光景は、自分が車に乗って津波の現場に行くというものが多いですね。
ーー震災が起きた時は、どんな状況だったのでしょうか?
午前中福島市内に行って、そこから車で南相馬に戻ろうとしていました。途中、飯舘村の岩盤浴に入って横になっているところで地震がありました。建物の中にあった電線一本だけで吊るされているライトが大きく揺れていたので、落ちてくる可能性があるからとりあえず急いで外に出ましょうと。昼間だったからそんなに人数はいなかったと思うんですけど、従業員の方々と外に出て「誰も中にいませんよね?」というやりとりをした記憶があります。
更衣室の奥に湯船があって、お湯が揺れると波を打ちますよね。その波の大きさが天井に達するぐらい、びっちゃんびっちゃんしてたんですよ。上から天井についたお湯が落ちてくるような様子を見ながら「これ、やっぱりでかいんだな。地震の揺れが大きいんだな」って。その時はまだ冷静でしたけど。

■「これ、まずいな」冷静さが一転 そして、次第に増す恐怖心
ーーそのあと、どのように動いたんですか?
とりあえず車に乗って沿岸部に向かいました。高い防潮堤が見えてきて、近くに住宅がいっぱいあるんですけど、もう誰もいない。防潮堤の方を向いたら、「ゴー」という、高速道路で窓を開けてトンネルの中に入った時のようなものすごい音が鳴ってたんです。気づいた時には防潮堤からこっちに向かって水が流れ始めたんです。お風呂のお湯が溢れるようなイメージですね。ザーッと流れてきて。水の勢いで電柱が3本倒れる音を聞いて「これ、まずいな」と思ってすぐ逃げようとしました。
そこで知らない男性が歩いていたんですが、「今見ましたよね?水が来てるからちょっと逃げましょう」と男性を僕の車の後部座席に乗せてUターンして、急いで内陸に戻りました。戻る道すがら、対向車で沿岸部に向かう車が何台かいたので、クラクションを鳴らして「行くな!」みたいなこともしたんですけど。かなりのスピードを出して内陸に向かって、南相馬警察署の駐車場に車を停めて男性を降ろしました。
ラジオでも何メートルかの津波が来るといっていたので高い所に登らなきゃいけないと、警察署の屋上に上がりました。そこで海の方を見たら、真っ黒で、海の高さが全然違うんですよね。通常は見えない位置に波がありました。
そこで地元紙の記者とも会って「大変なことになったね」って話をしました。子どもたちもおばあちゃんたちも叫びながら屋上に逃げていたのですごい喧噪で。余震もあったので、もう混乱のさなかにいるっていう感じでしたね。
ーー「これはまずい」と大きく気持ちが切り替わったのはいつですか?
やっぱり防潮堤を越えてくる波というか、海水を見たときに、「やばい」と思いました。多分その瞬間だと思いますね。でも、その日は全体像がまったく掴めなかったので、徐々に全体像が掴めてくると、本当に危ない現場を見に行こうとしたんだなと感じるようになりました。
その時は何が起きているのか、どうなるか分からない、という恐怖感がありましたけど、時間が経てば経つほど、あの瞬間もしもう一歩先を行ってたりとか、車を止める場所が間違っててUターンが出来ない場所だったりしたら死んでいたので、そういう恐怖の方が大きいと思いますね。
振り返って、自分の行動が何か一つでも違っていたら死んでたっていう恐怖ですよね。