■「いたたまれなくて撮れなかった」後ろめたさを抱えながら専念したのは


ーー街の様子はどうでしたか?

道が倒木で埋まっていたんですが、その間を縫って沿岸部へ向かいました。沿岸部はかなりの広範囲が津波に飲まれているので、1キロ先ぐらいまで海が見えて。でも、「あれ、海が見えるっておかしくないか」って。元々、ここに地区があって家もあった。それが見えるってことは、これ全部流されたんだ、と思いました。

津波後の南相馬

瓦礫をどかして誰かを助け出そうとしてる人がいたので、声をかけて救出作業をさせてもらいました。地元の人たちと一緒に、顔が見えたから木をどけてその人を助け出しましょうと。みんな亡くなってるんですけど、瓦礫をどけて、出して、息しているかどうかを確認してというのを繰り返していました。

その時、写真撮ってないんですよ。怖くて。遺体を撮影して紙面化するってことは基本、新聞業界ではご法度なので、撮れないし。でも、それを想像できるような写真を撮ることは出来たんでしょうけど、いたたまれなくて、撮れなくて。やっぱりご家族もそこにいて、泣き叫んでる人もいたので。

近くで同じような救出作業してるからそっち行こう、ということで、みんなで一緒に行って・・・というのを繰り返しました。気がついたら、もう暗くなってたから。うん・・・そうですね。ちょっとあまり思い出さないようにしたんですけど。取材するのが本来の仕事だろって言われる後ろめたさもあって。でも、目の前で救出作業をやってる人がいるんだったら、やらなきゃいけないって思っちゃったんですよね。この話は、当時は報告しなかったんですよね・・・。

■「逃げろ!」東京本社からの電話 突如鳴り響いた「ドーン」という音 


ーー大変な状況の中で、取材はいつ頃からできるようになったんでしょうか?

翌日は空が明るくなる前から出て行って、朝日が昇るところで写真を撮ったりして、何を伝えるか考えながら取材をしました。こういうことがあったとか、避難所にこれだけの人が集まってこういうことを喋っているとか何でも記事にしていました。

震災翌日の朝日の写真(神保記者撮影)

避難所で、ある男性が「ガソリンくれるんだったら取材応じてやるから、ちょっとよこせ」と言ってきたので、僕の車から手動でスポスポとガソリン取っているところで、「ドーン」という乾いた音がしたんですよ。遠くの方ででっかい音が鳴ったなっていう感じで、もう重機とか入っているのかなっていう雑談をしてたんです。結果的に僕の車からガソリンが取れないから「もういいわ」みたいなやりとりをして男性と別れたときに、携帯をふと取り上げたら、東京本社の社会部から十数件電話がかかってきていたんです。

「何かな?早く原稿出せって意味かな」と思って電話したら、「原発が爆発したから逃げろ」と言われて。「あの音は原発が爆発した音なのかな」って思っていたら、もうすごい剣幕で「とりあえず北側に行け」と言われました。南相馬の北側にある相馬市の販売店で東京から来た応援の記者と合流しろと言われたので急いで車で行きました。