「親父としては3人助かるのは無理だと思った。おばあさんは動かない。親父が可哀想になって自分が離れた。板が流れてきたから(移った)。そうしたら1分もしないうちに父も離れた。それっきり親父とは。」

一晩中漂流したのち、喜屋武さんは近くを通った漁船に助けられ、九死に一生を得ました。その後、母親と妹と無事再会しますが、母親は1年もたたないうちに栄養失調で死亡。喜屋武さんは孤児となりました。

栄養失調で死去した喜屋武盛宜さんの母親(写真中央)、右が盛宜さん

「(母の)最期は妹と二人で。火葬場で焼かないといけないでしょ。棺桶もないからリヤカーを借りてリヤカーに母を積んでね。二人で。そうやってリヤカーを引いて火葬場まで行った」

戦後、喜屋武さんは妹とも別れ、親戚の家を転々として生きてきました。長年県外で暮らしていましたが、10年前に沖縄に戻り、現在は故郷の沖縄市にある施設で暮らしています。

今年、5年ぶりに対馬丸の慰霊祭に参加した喜屋武さん。会場には、共に乗船し生き延びた妹・美智子さんの姿もー。静かに手を合わせました。