昭和19年、19歳の時に体調を崩し出水に戻りました。そして終戦の年の昭和20年3月18日、出水市も初めて空襲を受けることになります。

(堀切行男さん・99)
「旋回しながら、ダダダ、バリバリ、すごかった」
「しばらくしたら滑走路付近から爆弾は落ちる、機銃掃射でやられて火災が起きた」

この日の空襲での死者・負傷者の数は不明ですが、多くの軍人や住民が亡くなり、基地の大半の設備が破壊されました。

大野原町の畑では戦後、爆弾の破片がよく見つかっていたということで、空襲の激しさを物語ります。

Q.これなんですか?
「爆弾の破片。250キロぐらいの爆弾」

出水市の空襲の直後、堀切さんは激しい攻撃があった場所を一人で見に行きました。その場所は、戦闘機を敵の爆撃から守る格納庫、掩体壕の近くでした。

(堀切行男さん・99)
「この辺にばたっと倒れて、名前のところにぽっかり穴があいて。足がここから切れて、顔がただれて膨れ上がって人相もわからない」
「一瞬のうちに、いくら国のためとは言いながら…かわいそうと言うよりも悲惨なものだった」