中国で占領地の警備や支配下の拡大にあたった独立歩兵第96大隊。下原二等兵は主に機関銃を扱いました。
(下原邦義さん)「機関銃は弾が固定しているから、そこを狙う」

およそ5年にわたる従軍のなかで「最大の戦闘だった」と話すのが、中国の都市・衡陽での攻撃。終戦の前年、軍曹になっていました。
(下原邦義さん)「小高い丘のずっと向こうに敵。手前は田んぼ。向こうから集中射撃がくるところをめがけて撃って」

激しい銃撃戦のなか、仲が良かった同じ部隊の友人を失いました。
(下原邦義さん)「この人が死んだ。なんともいえない、惜しい人間を失ったと思った」
下原さんも敵の銃弾をうけたことがあります。

(下原邦義さん)「ここから入って、ここから抜けた。しびれたようだった」
「(Q.死は覚悟した?)必死だから(Q.死ぬことも怖くなかった?)怖くない」
日中戦争で戦死した日本軍はおよそ41万人といわれています。彼らは何のために戦ったのでしょうか。

(下原邦義さん)「それは上の命令だからわからない。何が欲しかったのか。日本が勝つためと思った。日本が勝たないと、『天皇陛下万歳』と言わないと」
目的がわからずとも死を恐れず、命をかけて戦ったという下原さん。日中戦争を含む第二次世界大戦は1945年8月15日に終わりました。

(下原邦義さん)「なんとなくわかっていた。沖縄がやられたっていう。沖縄がやられたら、もうだめだと思った。勝ち目なくしてやる限りと」
終戦後、始まったのは中国の農村での捕虜生活。予想していた悲惨な生活とは裏腹に、集落の中国人たちと穏やかに過ごしました。
(下原邦義さん)「(農村集落は)いい人だった。都会で捕虜になった人はものすごく使われたらしい。どぶ掃除をしたり、いろんなことを」