戦後80年プロジェクト「つなぐ、つながる」です。宮城県仙台市の地下から国内最大規模とみられる防空壕が見つかり、戦後80年にあわせ、内部の映像が初めて公開されました。巨大防空壕が私たちに訴えかけることとは。

迷路のように広がる地下トンネル。戦時中に掘られた防空壕です。仙台市中心部の地下から見つかり、戦後80年にあわせ、内部の映像が初めて公開されました。

地元の研究会が調査したところ、総延長は200メートル以上に上り、国内最大規模とみられています。

仙台・空襲研究会 新妻博子さん
「私たちの街の地下にこういう防空壕があるということを感じてもらいたい」

1945年7月10日のアメリカ軍による仙台空襲では1399人が犠牲になりましたが、この地下防空壕で命を落とす人はいませんでした。仙台市に住む庄司誠さん(取材当時89)も助かった一人、当時12歳でした。

先に逃げ込んだ人たちで防空壕の扉は閉ざされていたといいます。

庄司誠さん
「大勢の人が入っていて。開けてください、開けてくださいと10分くらい話したら、ようやく開けてくれた」

去年、研究会のメンバーたちと再び防空壕に入った庄司さん。当時は爆撃の音だけが響いていました。

庄司誠さん
「頭上からドドド、ゴゴゴという音がしました。その時は爆弾とも分からないし、何の音か分かりませんでした」

仙台空襲では、大小あわせ20万発以上の焼夷弾が投下され、街は焦土と化しました。

仙台市内には防空壕がおよそ5万か所整備されていたといいますが、多くは庭先に穴を掘っただけの簡易的なつくり。地下の頑丈な防空壕に逃げ込むことができたのは一部の市民だけでした。

焼け野原で見た、忘れられない光景があります。

庄司誠さん
「女の子が横たわって、焼夷弾の直撃を受けたのか真っ黒になってまだ煙が漂っていた。かわいそうだという気持ちで」

仙台市中心部の地下に残る防空壕は、安全上の理由から詳しい場所は明かされていません。

80年前、私たちの街にも空襲による戦火があったことを静かに伝えています。