太平洋戦争中に学童疎開船「対馬丸」がアメリカ軍に撃沈されてからきょう22日で81年です。奇跡的に助かった少女のことを覚えている88歳の証言です。

(中村恵子さん)「皮膚が全部溶けて。よくあれで生き返られたと思うぐらい溶けていた。太陽と塩水のなかで」

宇検村の宇検集落に住む中村恵子さん(88)です。現在、43世帯、90人が住む集落で81年前、ある出来事がありました。

沖縄から長崎に向かっていた学童疎開船「対馬丸」は1944年昭和19年の8月22日、十島村の悪石島沖でアメリカ軍の魚雷を受けて沈没。乗っていた1788人のうち8割にあたる1484人が死亡し、そのうち784人が子どもでした。

奄美大島には多くの遺体と、21人の生存者が流れつきました。7歳だった中村さんですが、当時のことを良く覚えています。

(中村恵子さん)「死んで流れ着いていた。ふんどし一枚。全部裸になって、足だけが一本切れて」

当時、診療所を開いていたおじ・碇元章世さんが治療した当時9歳だった少女は一命を取り留めました。

(中村恵子さん)「おじの家に連れてきて、ただれてるから着替えもないから、おばが自分の着物を切って少女に合わせて作って着けさせて。人間とは思えないくらい、すごくただれていた。本当にやっとの息をしているような」

少女の名前は平良啓子さん。おととし88歳で亡くなりましたが、戦後、治療したおじや中村さんと交流を続けました。

2017年、平成29年多くの遺体が流れ着いた宇検集落の船越海岸に、慰霊碑が建立された際、島を訪れました。

(平良啓子さん・当時82歳)
「忘れません、一生。73年前の話だとは思えない。きのう、おとといのような感じ。たくさんの人の遺体も埋葬してもらった、宇検村の人々の人情の心にはなんとお礼を言っていいかわからない」

「絶対戦争でこのような罪のない人を殺してはいけない」

宇検村の船越海岸では今月24日、沖縄からも参列する慰霊祭が開かれます。

(中村恵子さん・88)「(平良さんと)お墓でいろいろな話をした。きのうのことも分からないのに、あのことだけは覚えている。ひどい事件だったから」

沈没からきょうで81年。悲劇を語り継ぎ、沖縄と悲しみを分かち合う慰霊の日です。