川端通りも火の海 祖母は犠牲に

一方、冬至克也さんの祖父が営んでいた文具店は、空襲当時、天神から少し離れた博多商人の町、川端通りにあった。
店があったのは、現在の博多リバレインの角のところだ。

克也さんの父、堅太郎さんは福岡におかれた西部軍の中尉で、航空情報隊の任務にあたっていた。
そのため空襲時は、家に祖父母の二人を置いて、司令部にいた。

冬至克也さん
「空襲があって祖父母が二人で避難したんですけど、途中で離れ離れになったらしくて」

店があった一帯もほとんど焼けてしまった。
父、堅太郎さんは、遺体が収容された奈良屋小学校で祖母、ウタさんをみつけた。
福岡市警防団の人が書いた記録にはこのように記載されている。

「冬至氏は『お母さん』と一言軽く声をかけられ、右膝をついて男泣きに泣き崩れました」

ウタさんが安置されていた奈良屋小学校。
焼け残った扉の一部が、現在の博多小学校に保存されている。
バケツリレーで必死に消し止めたという。

冬至克也さん
「これは旧校舎の焼け残った壁の部分ですね。上のほうは煤になっている。これも一部崩れ落ちてきていて、保存が難しいところかもしれませんね。こういうものを見ていると。ここに遺体がたくさん安置されていたんだって、その時代を思い起こします」