日本人抑留問題に長年取り組み、現在はジャーナリストとして出版もしている、元読売新聞社の論説委員・井手裕彦さん(70歳)は、“モンゴル抑留”についてこう話しています。

「シベリア抑留という言葉の強さ、イメージの陰に、モンゴルというのが隠れた」
戦後にソ連軍が捕虜とした日本人兵士らは、実はシベリア以外にも分散されていました。

「“シベリア”の狭義の意味ではウラル山脈の東…」
「でも、ウラル山脈の西側、ウクライナだったり、サハリンなど北樺太、モンゴル、カザフスタンだったりウズベキスタンだったり…ユーラシア大陸全体だった」
ソビエト連邦からの要請で日本との戦争に参加したモンゴルは、その見返りとしておよそ1万4千人の捕虜をもらい受けたのです。

抑留された日本人は、首都ウランバートルの施設建設や主要産業の羊毛工場などで労働を強いられました。
1947年10月に一斉帰還が始まりますが、厳しい環境の中でおよそ1700人が命を落としたといいます。