戦後80年プロジェクト「つなぐ、つながる」です。太平洋戦争末期、沖縄戦で起きた住民たちの「集団自決」。沖縄だけでなく、鹿児島県の奄美でも集団自決のための壕を掘っていたという証言があります。奄美で埋もれつつあった戦争の記憶とは?

横浜市の元中学校教員・津田憲一さん(71)。奄美群島の加計呂麻島に残る戦時中の証言を集めた本を今年、出版しました。

「『玉砕のための壕』、本当は集団で自決させる計画だった」
「区長さんから『死に場所をつくりましょうや』との話があった」

奄美で「集団自決のための壕を掘っていた」という証言です。

太平洋戦争末期の沖縄戦。島の4人に1人が亡くなった地上戦では、多くの住民が「集団自決」に追い込まれました。

津田さんが奄美で「集団自決」の言葉を聞いたのは、当時96歳だった知人の母親からでした。

元中学校教員 津田憲一さん
「山の上に防空壕を掘って『玉砕壕』と呼んでいたという話。家族にもしたことない話をされたのが、すべてのきっかけ」

戦時中、加計呂麻島の周辺には日本軍の施設が造られ、激しい空襲も受けました。

津田さんは8年前、半年かけて島で戦争を体験した40人の証言を集めました。このうち6人が「玉砕や自決のための壕があった」と証言しました。

元中学校教員 津田憲一さん
「静子さん、また来ました」

国島静子さん(99)。壕の存在を証言した1人です。

国島静子さん
「(兵隊が)『何のために掘っているか分かっているか』と言うから、ただ防空壕に入るために掘っていたと思ったら、笑って『あなたたちが一緒に死ぬための防空壕だよ』と。みんなびっくりして」

沖縄戦に似た集団自決壕の証言が奄美にも残っていることに専門家は…

琉球大学(平和教育学) 山口剛史 教授
「(旧陸軍)32軍が沖縄戦で編成されたが、範囲は奄美から与那国まで。同じようなこと(集団自決)が起こったであろうと考えるのが普通」

しかし、集団自決にまつわる壕が具体的にどこにあるのか、いまだ分かっていません。

元中学校教員 津田憲一さん
「実際に掘り起こせなくても事実は掘り起こさないと、そして伝えていかないといけない」

戦後80年。埋もれつつあった戦争の記憶に光が当てられようとしています。