父の勧めで出かけた3姉妹 123便に乗る

1985年8月12日午後6時56分。そのとき、親吾さん(当時56)は自身が営む大阪市内の町場の石鹸工場で働き、輝子さん(当時51)は旅行から帰宅するはずの娘たちの夕食の準備に追われていた。仲の良い3姉妹で、長女の陽子さん(当時24)は毎年夏のボーナスが出ると妹の満さん(当時19)、純子さん(当時14)を旅行に連れていくしっかり者だった。

当初は群馬県の尾瀬を訪れる旅程だったが、親吾さんが茨城県で開催中のつくば科学万博に行くよう勧めたことで予定を変更。3人は事故機の123便に乗ってしまった。
「わしが余計なことを言わなければ、あの子たちは事故に巻き込まれずに済んだのに。悔やんでも悔やみきれん」。親吾さんは終生、自分を責め続けた。
3人の遺体確認 叫び声をあげた輝子さん

遺族が事故後に向かったのは墜落現場での捜索ではなく、遺体安置所での身元確認である。乗客乗員524人のうち4人が奇跡的に救助されたが、亡くなった520人の遺体の損傷は激しく、大半が部分遺体だった。
田淵夫妻が初めて遺体の確認のために体育館に入ったのは、事故から3日経過した15日。体育館を出た瞬間、輝子さんは叫び声をあげながら、日航職員におしぼりを投げつけて詰め寄った。
「うちの娘とは違う。あんなの人間の遺体やない。山の木を焼いたんやろ」
3人の遺体の最終確認を終え、大阪の自宅に戻ったのは20日。本当に大変だったのは葬儀が終わった後だった。輝子さんが錯乱状態に陥ったのである。