判決前日 用意した「遺書」

冬至堅太郎と妻・安余(左)次男

冬至堅太郎の判決期日は、1948年12月29日。その前日の日記。

<冬至堅太郎の日記 1948年12月28日火曜 曇>
〇遺書書き終わる
午前中かかって遺書と親類知人への別れの文を書き終えた。遺書は九枚、手紙の八枚だけは昨日今日かかった。手紙は妻の御両親、弟妹、片野さん、伯父、伯父、十一会(中学の同窓会)、親戚一総へ。一人一人書きたいのだけれども、とても書ききれそうもない。遺書も文も意にみたないが、遺書の方は日記を読んでもらえば今までにしてきたことは全部書いてあるから皆わかる。一応書き上げたのでほっとした。この遺書、手紙に日記の十二月十八日以降分をあす法廷で片野さん(知人)に託すことにする。

いよいよ明日は判決だ。安余の姿がみえないのが気楽でいる。お父さんと安余はどんな気持ちで判決の知らせを待って居られることだろう。

〇身辺整理
午後、再審の資料を書いたあと、身辺整理をする。数冊の書籍にパイプ、櫛、それに書き物くらいのもので、至って簡単だ。万一の場合は同室の友に形見としてあげるもの、家に持っていってもらうものに分ける。

数百万の戦死者の家族のすべてが味わった悲しみ

冬至堅太郎が判決前に書いた別れの文

この時に書いた別れの文のうち、「親類知人への別れの文」が冬至家に残っていた。妻・安余(やすよ)の両親に宛てたものだ。

<冬至堅太郎が判決前に書いた別れの文 1948年12月28日>

御両親様
事ここに至りまして今更何とお詫び申してよいか判りません。御両親様が初子(第一子)の安余さんをどんなに慈しみ育てられましたか、判りすぎる程わかります。安余さんへの愛情がそっくり私にも注がれた事も良く知っております。それだけに御両親様の姿を思い浮かべるとき、胸がきりきりと痛むのです。

多くの人は私を「つまらぬ事をしたものだ」と云いました。しかし、はじめて打ちあけました時、御両親様が「子として当然です」と云って下さったのが忘れられません。百万の味方を得た気持ちでした。私のした事はその時の私にとって余りに自然で、今でも後悔の余地のない程です。私は誇りをもって死にます。その心もよく判って下さる事と信じます。私の死は両家にとって深刻な悲しみでしょう。しかし、これを十年にわたる戦争と云うものから見ると些細な問題です。私は米軍が九州に上陸迫って来た場合は、安余さんも坊やたちも殺した上、斬死をするつもりでした。それを思うと妻子の命が助かった事を、神に感謝せずにはいられません。私を失った悲しみは、数百万の戦死者の家族のすべてが味わった悲しみであり、日本人の大部が耐えて来たものだと云うことを安余さんによく説いて下さる様お願いします。

安余さんの将来については、遺書の中に私の希望をのべておきました。安余さんに与えた悲しみを償うためには、安余さん本位の手段を講じて頂く様に祈って居ります。御両親様には、子として何一つ恩返しをせず、また好徳さんたちにも兄としてのつとめを果たさず、死なねばならなくなった事を許して下さる様に、また、父の老後、安余さんと坊やたちの将来については何卒厚い御庇護を賜ります様お願いいたします。申し上げたい事は山程ありますが、到底書きつくせません。堅太郎