戦後、米軍がひらいた横浜軍事法廷で死刑を宣告され、スガモプリズンで処刑されたBC級戦犯は51人。最後の処刑は1950年4月7日、石垣島事件の7人だった。石垣島事件では、米軍機搭乗員3人の殺害につき、41人の日本兵に死刑が宣告された。空襲で石垣島警備隊の仲間が死んでいく中、対空砲撃で墜落した米軍機に乗っていた3人の米兵を捕らえ、その日のうちに、二人を斬首、一人を刺突訓練の的にして命を奪った。大勢の日本兵が現場を取り巻く中、上官の命令によって最初に銃剣で突いた藤中松雄は、再審でも死刑のままで、1949年の年の瀬を迎えていた。念仏を唱える日々。松雄は兄への手紙に自分の日記に書いたことを写した。「吾々は如何に生きるべきか」。死を目前にした戦犯死刑囚の心情はー。

◆やがてクリスマス 検閲で手紙は滞り

スガモプリズン最後の処刑で亡くなった藤中松雄

藤中松雄は、19歳で藤中家に婿入りしたが、生家では四男で3人の兄がいた。手紙の発信は週に二通という制限があったが、兄に送った手紙が多く残っている。

<藤中松雄が兄に宛てた手紙 1949年12月12日付>
拝啓 懐かしいお便り、満二ヶ月と二日目の本日(十二月十二日)高鳴る胸をおさえながら、読みました。みんな無事との由、何よりと喜んでおります。孝坊(次男)の事も細々と書いてありましたが、庭先に立って父なる者の存在も知らず、小さい手を一生懸命振って、無心に兄を兄チャン兄チャンと呼ぶ可愛い孝坊のその姿が目一杯写って来ます。

手紙が届かぬと案じられている様ですが、それは検閲の関係で遅くなっているのだと聞きました。その内、次々に必ず届くと思っております。私もこの通り元気ですから、心配には及びません。今日の手紙は十二月五日の手紙で、お母さんと光子(妻)と稲刈りをしていたとありました。どんなに苦労をしているだろうかと思うと、うちの事はなんにも書けません。やがて「クリスマス」「正月」が来ますね。元気にお暮らし下さい。
合掌 愚弟 兄上様 十二月十二日


この時、28歳の松雄には二人の息子がいて、次男の孝幸さんはこの頃、まだ2歳だった。孝幸さんは一度、母(ミツコ・手紙では光子と表記)に連れられて、スガモプリズンまで面会に行っているが、本人に記憶はない。