戦犯たちが収容されていたスガモプリズンで最後の死刑執行が行われたのは、終戦から5年後の1950年4月7日。この日、処刑された7人のうちの一人が、福岡県出身の藤中松雄だった。松雄が米軍に囚われたのは、1947年6月。次男が生まれて、まだ半年も経っていなかった。獄中で3度目の秋を迎えた松雄は、幼い息子二人を抱えて農業に励む妻ミツコへ手紙を書いた。福岡から遠い東京都豊島区のスガモプリズン。面会はまだ一回しか実現していなかったー。
◆刈り入れが始まった故郷の田を思い起こし

スガモプリズンに囚われ、BC級戦犯を裁く横浜軍事法廷で藤中松雄が死刑を宣告されたのは、1948年3月。手紙の日付は1949年10月25日なので、すでに1年半が経過している。19歳で藤中家の婿養子となった松雄の家族は、妻ミツコとその両親、そして幼い二人の息子だった。松雄が連れ去られて以来、農家の重労働は、年老いた父とミツコが背負っていた。
<藤中松雄が妻ミツコに宛てた手紙 1949年10月25日付>
※一部現代風に書きかえ
拝啓 大変涼しくなって参りました。みんなも相変わらず元気でお暮らしの事と推察致しています。稲もほとんど黄色くなって来たとあったが、既に刈入れも始まり、多忙な日々を送っておられる事と、心は故郷のあの田この田と走りながら、身は囚屋に座して、みんなの苦労を案ずるのみです。
松雄のもとには、妻ミツコが10月6日に書いた手紙が20日に届いていた。13日と14日に兄が書いた手紙も同時に受け取っているので、福岡から手元に届くまで郵便事情と検閲で、1週間から2週間かかるということになる。