お米と植民地主義
日本の米の歴史を考える上で、戦前の植民政策との関わりも見落とせません。
十分な米を国内で生産できなかった日本は、植民地化した台湾と朝鮮半島で米の生産を進めました。台湾ではもともとインディカ米しか作れませんでしたが、日本の技師の品種改良によって台湾でも育つジャポニカ米を開発して、生産を開始。「蓬莱米」という名前をつけて日本に輸送(正確には「移出」と呼びます)しました。
また、朝鮮半島でも米作を進め、大量の米を日本に移出しました。その結果、朝鮮半島では飢餓が深刻化し、朝鮮半島の人たちは満州からの雑穀で飢えをしのぎました。
もともと寒冷のため米作りに適していなかった北海道でも米の生産が進められました。そうした中で、藤原さんアイヌの食文化が失われていったと指摘します。「米作が導入される中で、元々あった明治期のアイヌの狩猟文化が禁止されたり、廃れたりして、北海道は『コメの植民地』になっていきました。日本の植民地政策と、『米食悲願民族』だったということは、深く結びついているのです」