テレビバラエティの時代

川口 いわゆるバラエティについて僕が記憶しているのは、「光子の窓」※がNTVで出てきて、それからNHKで「夢であいましょう」※※が始まって、その頃からテレビにおけるバラエティの存在が非常に注目されたと思うね。

※「光子の窓」草笛光子がメインのバラエティ番組(1958年~1960年)。演出、井原高忠。日本の本格的バラエティの嚆矢と言われる。

※※「夢であいましょう」NHKのバラエティ番組(1961年~1966年)。永六輔の構成、中村八大の音楽で「光子の窓」とともにバラエティ番組の原型となる

僕は「夢であいましょう」には途中から参加した。5年続いてんだよ、あの番組。ただし僕が承ってからは、たった2年半しか続いておりません。

なぜ続かなかったか?昭和38年(1963年)から翌年にかけて、にわかに<まじめ派>が、あっちもこっちも起こってきたんだ。「何だけしからん、あんなふざけた番組をやりやがって」というのが、NHKの中にもありましてね。それでそういうものを粛清するために、派遣されたお方がいるんだよ。NHKもすごいですよ。「オレはあんた方を粛清するために来た」と豪語するんだから。その方が芸能局の次長になって来られてね。

僕はほんとにまいったよ。「夢であいましょう」の台本ね、これは実話だから隠さず言いますけど、永六輔が書いてきた台本を見ると、「マルクスいわく」と書いてあるんだ。もちろんパロディですよ、マルクスがそんなこと言ったかどうか知らない。こういうふうにひねってマルクスが言ったという設定。するとそのお方は、「チーフプロデューサーは誰だ、川口?呼んで来い」。それでノコノコ行ったら「マルクスは、こんなこと言っとらんよ」と。

「あ、そうですか」
「僕は京都大学の経済学部出身だからね。マルクスは詳しいんだよ」
「は?僕は文学部ですから何にも知りません」
「こんな事実と違うことをね、バラエティといえども書いちゃいかんよ」
「どうしてですか。だってバラエティってのは、パロディなんですから。パロディってのは茶化すから面白いんです」

それで、ここをカットしろというんです。こっちは「カットしたくない」と頑張るわけ。そしたら「カットしろ。業務命令だ」とおっしゃる。

「は、業務命令というと、もし違反したらどうなりますか?」
「君は辞めるんだね」
「あ、そうですか。僕はまだ辞めたくないんですけど」
「しかし業務命令に違反したら辞めなきゃいけない、というのは鉄則だ」

結局「あ、そうですか…」と言って部屋に帰ったんです。その次長のいる部屋は別ですから。そしたら永さんが来てたんで「永さん…俺辞めるかもしれんよ」。

「どうしてですか?」
「だって、あなたが『マルクスいわく』と書いたもんだから、それを削る削らないで上司とケンカしてんだよ。おれはどうしても削りたくないからケンカして、やめる」

まじめにだよ。ほんとにまじめな顔して言ったの。そしたら永さんがびっくりして「冗談じゃない。あなたが辞めるなんて冗談じゃないですよ。僕が書き直します」といって、すぐ書き直しに応じてくれて、ま、一件落着になっちゃった。