紅白歌合戦はじまる~TV中継のカメラは2台!
川口 「紅白」に話をもっていくとね、あれは昭和26年(1951年)にラジオでスタートしたんです※。僕はまだ福岡にいて、1月3日の放送を聴いて面白いなあと思った。生放送の中で突如アクシデントが起こるわけですよ。そのアクシデントをうまく取り込んで、見事な構成。あ、この番組なら当たるなあと思っていました。
※ 1951年1月3日第1回放送はラジオのみ、1953年1月3日の第3回はラジオ放送とテレビ試験放送、同年12月31日の第4回はラジオ・テレビ同時放送(この回から公開放送)。以降、大晦日の公開放送として定着した。
当時私は福岡ですから、誰がやってるのかなと思っていました。それが28年(1953年)の4月に東京に帰ってきたら、近藤さん*という人が夏頃にノコノコ出てきて「テレビで紅白をやらないかね」とこう言うんですよ。それで「え?」っと…。
※近藤 積(つもる)NHK音楽番組ディレクター
久野 近藤さんというのはラジオの方ですか?
川口 そうそう。この人はテレビをやったことは一遍もない。ラジオの大ベテラン。それでその人のアシスタントについて初めて「紅白」をやったのが、昭和28年の12月31日。
久野 そのときはテレビですか。
川口 テレビです。ラジオでメインをやって、それをテレビが受け止めるってやつね。全体の責任者が近藤さんで、テレビの担当が僕の先輩だった福原さん※という人。この福原さんのアシスタントをやってた川口は従ってテレビ関係のことを全部やらされていた、というふうになるわけですな。
※福原信夫 NHK音楽番組ディレクター。近藤、福原両氏とも、戦後の音楽番組の黎明期に活躍
久野 カメラは何台ぐらい?
川口 2台。
久野 AカメBカメで?
川口 AカメラBカメラ。今ならもう笑いものですよね。
久野 どういうカメラですか。ズーマー(画角を無段階に調整する装置)はついてない?
川口 ええズーマー無いです。しかもそれで2台だけ…。昔は、2台のカメラをスタジオの中でどうやってうまく扱うのか、それにはカメラのケーブル捌きってやつが非常に大事だったり、そういうことを一生懸命考えるのが、アシスタントの仕事の第一でした。だから歌合戦の会場だった日劇でも、なにしろ中継カメラは2台しかないから、それをうまく使ってね、ただ交互に切り返していくだけですけども、またそれでよかったんですよ。

いまも続く「のど自慢」のこと
久野 NHKの音楽番組として、もう一つ「のど自慢」ですけど。
川口 「のど自慢」※ は、昭和21年(1946年)の1月にもう始まってるんです。
※「のど自慢素人演芸会テスト風景」と題して1946年1月19日にラジオ放送開始。翌1947年7月6日から「のど自慢素人演芸会」となった。
久野 え、21年?
川口 うん。終戦直後ですよね。もちろんそれは僕は知りませんよ。調べてみると、21年の1月に、三枝健剛さん※ て人がいて──この人は、三枝成彰、健起兄弟のお父さんです。
※三枝健剛 NHK音楽番組のディレクター、本名三枝嘉雄(1910〜1997)。音楽家三枝成章、健起兄弟の父。
その人が「のど自慢」やろうってことになった。それで、復員したばかりの兵隊をつかまえて歌わしたわけです。
歌い終わるとアナウンサーが「はい、ご苦労さまでした」「ありがとうございました」と言う。するとね、みんな合格したと思っちゃうから帰らない。それで三枝さんが発明したのが「鐘」です。1つ鳴ったら不合格、2つ鳴ったらまあまあ、3つが合格の鐘というふうにして、これをやったんでスムーズになってきた。
みんな自己表現というものに飢えていたわけですな。だから初めてですよ、マイクロフォンを素人に開放したのは。
素人という点では、もう一つ「街頭録音」 というのがあった。いろんな人に意見を言わせるんです。一方の「のど自慢」は歌。両方とも、戦前の閉塞的な、あんまり物も言っちゃいかんような雰囲気の中で「お国のため」とか「天皇陛下万歳」としか言えなかった日本人が、戦後になって、にわかに自由を獲得した。その発現が「街頭録音」や「のど自慢」の鐘になったと、僕は思うんだけど。
