毒ガス被害 村で最後の生存者は

高畠さんは、中国の小さな村を訪れました。
中国・河北省・北たん村。1942年5月、日本軍の毒ガス攻撃を受けました。
寒川町の毒ガスは、結局実戦では使われませんでしたが、別の場所で作られた毒ガスは北たん村など中国各地で使われたのです。
高畠修さん
「やっぱり叔父からすればものすごく責任を感じていると思うんです。直接自分が作ったものではなくても、同じようなものが使用されたわけですので、私は私の気持ちとして慰霊をしてきたいと思います」

村の資料館には「毒ガスで殺された子どもたち」とされる写真が展示されています。 亡くなった人は1000人にのぼるといいます。
高畠修さん
「これは…ひどいな」

村で高畠さんを迎えてくれたのは李欣有さん(88)。日本軍が攻めてきた時、わずか5歳でした。
一面、畑に囲まれた北たん村。 逃げる場所はなく、 日本軍が攻めてきたときのために地下道を備えていました。 李さんも家族とともに地下道に逃げ込みました。 そこに日本軍は毒ガスを投げ入れたのです。

李欣有さん
「あの時はくしゃみをしたり、涙を流したりして、目も開けられなかったんです。 転がる人や這う人、あたりは死体ばかりで歩けなくなりました。 私の祖父や父、みんな地下道の中で亡くなりました」

毒ガスから逃れようと地下道から這い出た住民を日本軍が待ち構えていました。
李欣有さん
「地下道から出たら銃で撃たれたんです。母は私に覆いかぶさって、懸命に守ってくれました。もし守られていなければ私も死んでいたはずです」

李さんに覆いかぶさった母親は撃たれ、亡くなったと言います。
村の中心部にある霊園には毒ガス攻撃で亡くなった人たちの名前が刻まれています。 李さんも両親と兄、親戚あわせて6人を亡くしました。
李欣有さん
「長い時間が経ちました。恨んでも仕方ありません。しかし私はまだ全てを覚えています。忘れたくても忘れられません」