戦後80年、戦争の記憶を伝える「つなぐ、つながるプロジェクト」。
戦時中、日本でひそかに作られていた毒ガスは中国で使われ、多くの犠牲者を出しました。被害者に思いを伝えるため、中国を訪れたある男性が感じたことは。
“叔父の日記” 16歳で作った毒ガス弾

神奈川・寒川町。約20年前、ここで工事中にあるものが見つかりました。
ビール瓶に入った黒く濁った液体。 見つかったのは「毒ガス」でした。
フェンスに囲まれたこの場所に戦時中、3000人ほどが働いたとされる、海軍の毒ガス製造拠点「相模海軍工廠」があったのです。

「相模海軍工廠」に関する資料を見せてくれた人がいます。高畠修さん(73)。 叔父の石垣肇さんが戦時中「相模海軍工廠」で毒ガス製造に関わっていました。

高畠修さん
「一言で言うと真面目。くそ真面目。日記を戦時下であってもずっと書いていた。真面目で几帳面な人でしたね」
石垣さんが当時の様子を書き残した日記があります。

【石垣肇さん 当時の日記より】
「宣誓」
「相模海軍工廠ノ作業ニ挺身スルコトヲ誓フ」